真田幸隆の三男。武田信玄・勝頼の重臣。天文16年(1547)1月に生まれる。幼名は源五郎。通称は喜兵衛。安房守。上野国岩櫃城主、のち信濃国上田城主。
信玄子飼いの武将で、天文22年(1553)8月頃より武田信玄の下で人質として在府し、奥近習衆となる。信玄の近習として永禄4年(1561)の川中島の合戦:第4回にも参戦し、これが初陣とされる。
永禄10年(1567)頃より甲斐国の名門・武藤氏の名跡を継いで武藤喜兵衛と名乗っていたが、天正3年(1575)5月の長篠の合戦で兄の真田信綱と昌輝が戦死したため本姓に復して真田氏を継ぎ、北信濃の本領統治と上野国への勢力拡大に努めることとなる。
天正6年(1578)に越後国上杉氏で御館の乱が起こったことで上野国における上杉氏の影響力が薄くなると、調略策を用いて勢力を浸透させ、天正8年(1580)5月には北条氏の守る上野国沼田城を攻略し、沼田の地をも支配した。
天正10年(1582)の武田氏滅亡の直前、主君である勝頼を自身の居城である上野国岩櫃城へ迎え入れようと建言したが、小山田信茂や長坂光堅(長閑)らに反対されて勝頼は岩殿山城へ向かうこととなる。が、小山田に裏切られ、侵攻してきた織田勢に逐われ、勝頼は3月に自害した(武田征伐(田野の合戦))。
武田氏の滅亡後は織田信長に臣従して上野国の領主・滝川一益の麾下となるが、6月の本能寺の変で信長が横死すると織田氏より離反、7月には北条氏に属し、その後も時勢を読んで徳川氏や上杉氏など、転々と従属先を替えた。このことを指して、のちに羽柴秀吉から『表裏比興の者(裏表があって油断のならない者)』と呼ばれた。この間の天正11年(1583)4月より信濃国にて上田城の築城を開始。
天正13年(1585)には徳川氏に従属していたが、徳川氏が北条氏と講和し、その条件として北条氏に沼田領を引き渡すことを取り決める(沼田領問題)と、昌幸はそれに従わずに徳川氏と断交、それまで敵対していた越後国の上杉景勝と結んだ。これらのことから徳川家康と悶着を起こし、同年閏8月には居城・上田城を鳥居元忠・大久保忠世らの率いる徳川軍7千に攻められるがこれを撃破し、小信玄と言われた(上田城の戦い(神川の合戦))。
その後は羽柴秀吉の傘下に入り、秀吉の仲介で沼田領問題は一応の解決を見たが、天正17年(1589)11月頃に北条氏が真田氏の属城であった上野国名胡桃城を強奪したことがきっかけとなって北条氏の討伐が決定された(小田原征伐)。
天正18年(1590)の小田原征伐においては上杉景勝とともに前田利家の手に属して上野国松井田城・箕輪城の攻略などに功を挙げた。小田原征伐ののち、所領を安堵されるとともに沼田領も従来のとおりに返還された。
天正20年(=文禄元年:1592)からの文禄の役には肥前国名護屋城に在陣した。
慶長3年(1598)に秀吉が没したのちは家康に属した。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には、家康に従って会津上杉征伐に従軍したが、7月に下野国犬伏の陣中にて石田三成からの檄文を受けると石田方に与することを決め、二男の真田幸村(信繁)とともに上田城に帰還。9月初旬より同城において、中山道を西上する徳川秀忠軍3万8千を足止めさせて関ヶ原の合戦への参加を阻止した(上田城の戦い:その2)。
役後に罪を問われたが、徳川方についた長男・真田信幸(信之)の嘆願によってその戦功と引き換えに許されて、12月に紀伊国高野山に幽居を命じられた。
慶長16年(1611)6月4日、蟄居先の高野山麓の九度山で没した。享年65。