上田(うえだ)城の戦い(神川(かんがわ)の合戦)

天正10年(1582)3月に甲斐国の武田氏が滅亡すると、徳川家康はその遺領をめぐって北条氏直と衝突したが、10月29日に上野国は北条氏、信濃・甲斐国は徳川氏が支配するという協定を取り決めて和睦した。信濃国の小領主・真田昌幸は同年9月より家康に属していたが、上野国沼田にも領地を持っていたため、この勝手な取り決めに不満を抱いた。
そしてその2年後の天正12年(1584)4月、家康は羽柴秀吉と対立して小牧・長久手の合戦が起こる。背後に不安を覚えた家康は、北条氏を頼んで秀吉軍に対抗しようとした。氏直は援軍を送る条件として、真田昌幸の所領である沼田の割譲を求めてきた。背に腹は代えられず、家康は昌幸に沼田領を北条氏に譲ることを命じたのである。しかし昌幸は、「沼田は拝領した土地ではなく、我らが自力で得たものである。沼田を渡すいわれはない」と、これを断固として拒否。それまでの従属関係を断ち切って、敵対する姿勢を明らかにしたのである(沼田領問題)。
そして昌幸は戦備を整える一方で天正13年(1585)7月に越後国の上杉景勝に和を請い、二男の弁丸(のちの真田幸村)を人質に出して上杉氏に属すようになった。同時に、秀吉にも擁護を求める書状を送っている。
それを知った家康は怒り、8月、鳥居元忠・大久保忠世・大久保忠教・平岩親吉らの譜代衆と岡部忠綱・三枝昌吉・屋代勝永といった今川・武田の遺臣たちを組織して昌幸の居城・信濃国上田城を攻めさせたのである。
閏8月2日、7千余の徳川勢は完成して間もない上田城に総攻撃をかけ、城中の二の丸にまで攻め入ることができた。ところが、狭い街道に大軍でひしめきあっているところに、城中や諸所に潜んでいた伏兵から弓や鉄砲で攻めかかられ、大きな損害を出した。また、迷路のように入り組んだ城下の街道にはいたるところに柵が拵えられていたために自由に動けず、かえって城攻めの徳川軍が敗走してしまったのである。
徳川軍は国分寺付近で敗兵を集めて態勢を立て直そうとしたが、勢いを駆って追撃する真田軍によって神川畔まで追い詰められてしまう。しかも、神川を渡って退こうとしたところを戸石城に控えていた真田信幸率いる兵に攻め込まれ、さらに大きく崩されたのである。このときの徳川軍の死者は1千3百余といわれる。

その翌日、徳川軍は上田城の攻撃を諦めて後退して上田城の支城・丸子城を攻めようとしたが、上田城と連携を図った防備にはかばかしい戦果を挙げることができず、9月下旬まで滞陣していた。
真田領内から兵を退いたのちにもなお佐久地方に留まって再攻撃の機会を窺っていたが、11月に徳川軍は突然に兵を引いた。徳川重臣の石川数正が羽柴秀吉のもとに出奔したからである。
精鋭を誇る徳川軍を破った真田昌幸の名声は、この一戦によって知れ渡ったのである。