真田信幸(さなだ・のぶゆき) 1566〜1658

真田昌幸の嫡子。幼名は源三郎。従五位下・伊豆守。隠居してのちは一当斎と号す。
天正14年(1586)11月に父・昌幸が徳川家康の配下となったときに徳川氏に出仕し、天正17年(1589)2月13日、家康に謁見。その後、徳川氏の重臣である本多忠勝の娘・小松を家康の養女として娶り、徳川氏との結びつきを深めた。
天正18年(1590)の小田原征伐では昌幸と共に上野・武蔵国の北条氏に与する諸城を陥落させた。こののち、旧領を回復して上野国沼田城主となる。
文禄3年(1594)11月2日、従五位下・伊豆守に叙任。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては、西軍に与した父や弟・幸村と別れて徳川方(東軍)に属し、中山道から美濃国へと向かう徳川秀忠軍に従軍した。戦後、自分の戦功に替えて父と弟の助命を嘆願し、ふたりは死を免れて高野山へと配流された。
また、この年に名乗りを「信之」に改めている。
翌年には旧来の上野国利根郡(沼田)2万7千石に、昌幸の所領であった信濃国小県郡(上田)3万8千石と加増分3万石を与えられて9万5千石の信濃国上田城主となる。
慶長年間末期の大坂冬の陣夏の陣に際しては病床にあったため自らの参陣はできず、長男・信吉を従軍させている。
元和8年(1622)10月に信濃国松代藩13万5千石へ移封の沙汰を受け、うち沼田領3万石を信吉に分知した。
寛永11年(1634)6月に信吉に先立たれ、明暦3年(1657)7月(明暦2年10月とも)に家督を二男の信政に譲って松代の柴村へ隠居するまで藩主の座に在り続けたが、その信政も明暦4年(=万治元:1658)2月に没したために家督の相続問題が持ち上がる。同年6月にこの問題は落着したが、この心労のためか8月末頃より病臥するようになり、10月17日に没した。93歳。大鋒院殿鉄巌一当大居士。