徳川家康(とくがわ・いえやす) 1542〜1616

天文11年(1542)12月26日、三河国岡崎城に生まれる。父は岡崎城主・松平広忠、母は三河国刈谷城主・水野忠政の娘(於大・伝通院)。幼名は竹千代。通称は次郎三郎。初名は松平元信、ついで元康、徳川家康と名を改めた。
父・広忠は尾張国の織田信秀と抗争し、天文16年(1547)8月に至って今川義元から支援を受けるため、6歳であった家康が人質として今川氏に送られることとなった。しかしその途中で三河国田原城主・戸田康光の襲撃を受けて織田信秀のもとに送られ、その後の天文18年(1549)に織田氏と今川氏の間で行われた人質交換で今川氏の人質となった。
天文24年(=弘治元年:1555)3月に元服し、今川義元から偏諱を与えられて松平元信と名乗る。しかし今川家中では家臣と同様に扱われ、弘治3年(1557)に今川氏の重臣・関口義広(別称を氏広・親永)の娘(築山殿)を妻合わせられた。
同年頃に元康と改名し、弘治4年(=永禄元年:1558)2月の寺部城の戦いが初陣。
永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦で義元が討たれたことによって今川氏が瓦解すると、その混乱に紛れて三河国岡崎城にて自立を果たし、翌永禄4年(1561)には義元のあとを継いだ今川氏真から離反して織田信長と結んだ。
永禄6年(1563)7月に家康と改名し、同年9月より三河国一向一揆を鎮定して(上和田の合戦)領国を固め、永禄8年(1565)頃には三河国をほぼ統一。永禄9年(1566)12月には朝廷から勅許を得て松平姓を徳川に改め、従五位下・三河守に叙位・任官した。
また、これと前後して「三備」と称される軍制の再編を行い、それまでは家や領主単位で動員していた兵を東の組と西の組、そして旗本(家康直属)の3つの軍団に編成し、さらに東と西の旗頭(長官)には一族ではなく、譜代家臣の酒井忠次石川家成を任命している。
永禄11年(1568)には甲斐国の武田信玄と語らい、勢力の衰えた今川氏の領地である駿河国と遠江国を、大井川を境界として分割する旨の密約を結び、家康は遠江国に侵攻した。しかし、のちに信玄が遠江国にまで手を伸ばそうとする動きを見せたため、関係は悪化した。武田氏と友好状態だった期間は短く、のちに駿河・遠江両国の支配をめぐって戦うことになる。
元亀元年(1570)には居城としていた岡崎城を長男の松平信康に譲り、遠江国引馬(引間・曳馬)城を改修するとともに地名を浜松と改めて新たな本城とし、拡大した領国の支配に対応した。またこの年の6月、信長と連合して出陣した姉川の合戦で朝倉氏の軍勢を破っている。
元亀3年(1572)12月には遠江国の三方ヶ原において、上洛を目指す武田勢と戦うも惨敗を喫した(三方ヶ原の合戦)。しかし翌元亀4年(=天正元年:1573)に信玄が没すると、天正3年(1575)5月に信長とともに長篠の合戦で武田氏に壊滅的な打撃を与えた。その後も武田氏との攻防が繰り返されるが、天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、武田旧領のうちから駿河国を獲得した。
同年5月には信長から招かれて近江国安土城で饗応を受け、6月には和泉国堺を遊覧していたが、6月2日の払暁、京都にいた信長が重臣の明智光秀に討たれるという事変が起こる(本能寺の変)。信長の無二の同盟者であった家康も危険を察し、少数の近臣とともに伊賀国を通って4日には伊勢国から三河国に帰還。14日には光秀を討つべく軍勢を率いて発向するも、尾張国鳴海で光秀もまた羽柴秀吉に討たれたことを知って浜松城に戻るが、その傍らにも甲斐・信濃国の略取を企図し、軍勢を派遣している。この動きは関東の北条氏と競合するところとなるが、同年8月から10月にかけての若神子の合戦を経て支配域を拡張し、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヶ国に及ぶ領地を有する大大名となった。
天正12年(1584)には織田信雄と同盟して羽柴秀吉と小牧・長久手に争ったが、秀吉との総力戦になることを避けて和議を結んだ。しかし天正13年(1585)11月に重臣の石川数正が秀吉のもとへ出奔するなどしたため秀吉との緊張は続いたが、天正14年(1586)に秀吉の母や妹を人質として請け、秀吉に恭順した。
同年、居城を駿河国の駿府城に移す。
天正18年(1590)の小田原征伐には先鋒を務め、戦後の8月にその行賞として北条氏の旧領である関東6ヶ国(伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総)240万石への転封を命じられ、江戸に移った。
慶長3年(1598)の秀吉の没後は豊臣政権の五大老の筆頭として秀吉の遺児・豊臣秀頼による政権を総覧したが、水面下で徐々に勢力を拡大浸透させ、慶長5年(1600)の関ヶ原の役石田三成らの西軍を破って反徳川派を一掃、実権を握る。その戦後処理の論功行賞においては、徳川氏直轄領の増大および息のかかった大名への加封を行い、なしくずしに豊臣氏の勢力を削減することに成功した。
その3年後の慶長8年(1603)2月12日、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いた。
慶長10年(1605)4月16日、家康はわずか2年で将軍職を子・秀忠に譲り、征夷大将軍の職は徳川氏の世襲であることを天下に示した。しかしこれを不満とする豊臣氏と不和になり、ついに慶長19年(1614)冬から翌年にかけての大坂冬夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、天下統一を成し遂げた。
引退後も家康は駿府にあって「大御所」として秀忠を後見し、将軍政治の基礎を作った。
元和2年(1616)4月14日(17日とも)没。享年75。
遺訓として有名な「人の一生とは、重き荷を背負って坂道を歩むが如し」の言葉は後世の創作であるとされているが、家康の人間像や生涯をよく表現している。