関ヶ原(せきがはら)の役

慶長3年(1598)8月の羽柴秀吉の死後、秀吉の築き上げた政権は秀吉の遺児・豊臣秀頼を頂点として、徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家上杉景勝の五大老と前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家の五奉行が実質的運営にあたる形になっていたが、しだいに五大老の筆頭格である家康と、五奉行一の実力者である三成との対立が表面化するようになった。
家康と拮抗する実力を有していた前田利家の存命中は辛うじて小康状態が保たれていたが、慶長4年(1599)閏3月3日に利家が没したことを機に、事態は緊迫を孕んだ新しい方向へと展開していくことになる。
利家の死後、かねてより三成に反感を持っていた加藤清正黒田長政福島正則池田輝政加藤喜明細川忠興・浅野幸長の7人が摂津国大坂に三成を襲撃する計画を立てるが、三成はこれを事前に察知。窮地に陥った三成はあえて家康へ援けを求めたのである。ここで三成を討つことはたやすいが、それは得策ではないと考えた家康は、警護の兵をつけて三成の居城・近江国佐和山城に送り届けることにしたのである。しかし、虎口を脱した代償として三成は否応なく隠退させられ、政治の舞台から引き降ろされることとなった。
体よく三成を排除した家康は政務の中心となっていた京都伏見城の西ノ丸に移り、さらには大坂に出仕していた他の大老らに帰国を許し、単独で政務を取り仕切る体制を作り上げたのである。
そして家康が秀頼に謁見するため大坂入りした9月7日の夜、増田長盛から「前田利長が浅野長政・土方雄久・大野治長と謀って家康を殺害しようとしている」と知らされたため、謁見の日に家康が警護の兵を率いて大坂城に登城するという事件が起こった。実際には襲撃は行われなかったが、これを機に家康は秀頼の居す大坂城に留まることとなり、豊臣政権の代行者という立場を固めたのである。

五大老のなかでただひとり畿内に留まり、秀頼の威光を後ろ楯として政権の実権を握った家康は他の大老の追い落としにかかる。まず標的に据えたのは、父・前田利家の死没によって五大老の地位と遺領を継承し、先だっては家康の襲撃を企てたとされる前田利長であった。
当時利長は自領の加賀国にあったが、家康は利長が浅野ら3人に襲撃を教唆したと断定して浅野を蟄居処分、土方・大野をそれぞれ常陸国・下野国に配流するとともに、利長を征伐する声明を出した。これに驚いた利長は使者を大坂に送って家康に弁明したが、容れられないばかりか母を人質に出すことを要求されたのである。
利長はやむなくこれに応じたが、家康はこの利長の母を、自身の本拠である江戸に移した。これにあたり、増田長盛らが「この人質は豊臣政権に出されたものであるから、江戸に送るのは私的行為にあたる」と反発したが、家康は移送を強行したという。既にここに家康が政権を私物化しようとする意図が読み取れるのである。
前田氏を屈服させた家康が次なる標的としたのは、陸奥国会津ほかに120万石の所領を構える上杉景勝であった。
景勝は慶長3年3月に秀吉の命を受けて越後国から会津へ入部していたが、それから半年も経ない同年8月に秀吉が死没したことを受けて上洛しており、慶長4年8月に帰国したのちには遅延していた道路・橋梁・城郭の整備に取り組み、積極的に浪人を登用して軍備の拡充を図るなど、領国経営の充実に意を注いでいたのである。
この性急にも見える隣国の国力増強に危惧を抱いた越後国春日山城主堀氏の重臣・堀直政、出羽国角館城主・戸沢政盛、さらには上杉家臣で慶長5年(1600)3月に逐電した藤田信吉までもが「景勝に謀叛の兆しあり」と注進したことを受けた家康は、慶長5年4月1日に伊奈昭綱を景勝のもとに遣わして上洛を命じた。その名目は、景勝は五大老の1人であるにも関わらず自領の陸奥国会津へ帰ったままであること、領内の城や防備を固めて戦備を整えていることなどについて上洛して説明せよ、とするものであった。
しかし、景勝の返事は否であった。上洛して家康に陳弁するということは、先の前田利長と同様に家康への屈服を認めたに他ならないからである。のみならず、上杉氏重臣・直江兼続の手による『直江状』と呼ばれる書状を返した。これは家康から出された上洛勧告に対し、応じられない理由を詳細に述べたものであるが、その文致は上杉から徳川への挑戦状ともいうべき過激なもので、これを読んだ家康は激怒したという。
これを受けて家康は「景勝が秀頼公に対し謀叛を企てている」との判断を示し、上杉征伐の軍事行動を起こすことを決めたのである(会津上杉征伐)。

家康は6月6日、白河口より家康自身と嫡子の秀忠が進み、仙道口からは佐竹義宣、信夫口からは伊達政宗、米沢口からは最上義光と仙北の諸将、津川口からは前田利長と堀秀治が侵攻するとする会津征伐の部署を定め、6月16日に手勢を率いて大坂城を出発した。
この会津征伐はあくまで秀頼の名代としての形を取っているため、福島正則や黒田長政をはじめとする豊臣恩顧の大名といわれる武将たちにも従軍を命じているが、先の前田利長のときもそうであったように、秀頼の威光を利用して他の敵対勢力を排除しようという性格のものであった。利長のように屈服すればよし、屈服しなければ「秀頼公のために」征伐するという大義名分を掲げて軍兵を動かせるのである。
大坂城を発して伏見城に入った家康は重臣・鳥居元忠を城将に任じて別れの宴を張った。
このことから、家康は会津征伐の出陣中に畿内周辺の敵対勢力が何らかの動きを起こすであろうことを予測していたことが推察され、裏返していえば敵対勢力を決起させるために伏見城に元忠らを残し、自らは畿内を離れることにしたのである。つまり伏見城は敵対勢力の決起を暗に促すための捨石であり、元忠もその役目を承知したうえで受けたのであろう。
6月18日に伏見城を発した家康は近江国大津・水口を経て伊勢国に入り、四日市から三河国吉田、遠江国浜松と東海道を下って7月2日に自城の武蔵国江戸城に入り、7日に陸奥・出羽国諸将へ陣容を指示している。

一方、佐和山城にて蟄居を余儀なくされていた石田三成は、家康が会津征伐に向かった今こそが秀頼を戴いて打倒家康の兵を挙げる絶好の機会と考えていた。その意味では家康の誘い水に乗ってしまったわけであるが、家康が江戸に入ったのと同じ7月2日、家康に属して会津征伐に出陣する途中であった大谷吉継を佐和山城に招き、この謀議を持ちかけたのである。吉継ははじめ反対し、数日間佐和山城に逗留してまで翻意を促したが、親友でもある三成の熱意に折れ、三成に加担することを決めたのであった。
この密議において吉継は、三成に「そなたは他人に対して横柄で人望がない」と辛辣な忠告をし、「総大将は家康に対抗しうる人物でなければならない」と主張。結局は総大将に毛利輝元、副将に宇喜多秀家を戴くことで相談が一決したのである。
輝元を総大将に推戴するにあたって毛利方への窓口になったのは(安国寺)恵瓊であった。その説得工作が功を奏し、輝元は7月15日に舟で広島を発って翌日に大坂に到着、そして17日には大坂城西の丸にいた家康の留守居衆を追い出して入城し、さらに前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行の名によって「内府ちかひ(家康違犯)の条々」、すなわち家康が秀吉の遺命に背いたとする13項目から成る弾劾文を、家康討伐の決起を促す檄文と共に諸大名に送付したのである。
これは紛れもなく宣戦布告文であった。これに首謀者の三成の名が入っていないのは、この時点で三成は奉行職から外されていたからである。
また、三奉行はこれに先立つ15日に大坂周辺に戒厳を布き、諸大名の大坂屋敷から妻子が帰国することを制止している。これは家康に従って会津征伐に出陣している大名に対する、事実上の人質である。

他方、会津征伐軍を迎え撃つこととなった上杉氏においても戦備が進められており、福島城に本荘繁長、白石城に甘粕景継、梁川城に須田長義、米沢城に直江兼続、庄内城に志田義秀をして外郭要所の防備を固めていた。また、白河口からの侵攻が見込まれていた家康率いる軍勢を迎撃するにあたっては、景勝自ら出馬して白河関の北西の革籠原に陽動し、機を見て川を逆流させて深泥と化した泥中に追い込んで一気に殲滅するという方策を立てていたのである。景勝はこの革籠原で勝機を失うようであれば討死を遂げるしかない、とする乾坤一擲の策に臨み、7月22日に会津若松城を発向した。
さらには時をほぼ同じくして、上杉氏の旧領であった越後国において堀氏を牽制する動きが起こっている。これは直江兼続の指示によるもので、土着していた斎藤・柿崎・山吉・宇佐美ら上杉旧臣諸氏の一族が越後国の分断を図って一揆を起こしたものである。
一揆は7月下旬より魚沼郡・古志郡・刈羽郡などで蜂起して堀勢の動きを阻害し、越後国から会津に通じる六十里越・八十里越・津川口をも遮断するに及んだ。これにより、堀氏の会津侵攻は不可能となったのである。

大坂における反家康方諸将の動向は逐一、江戸城に待機していた家康のもとに届けられていた。しかもその情報源のひとつは、反家康方に与したはずの増田長盛だったのである。
家康は畿内の動きを意識しながらも7月21日に江戸城を発し、再び会津へと向けて軍勢を動かしている。すでに伊達政宗は上杉景勝と戦い始めているにも関わらず、その行軍は非常にゆっくりとしたものだった。
7月24日までに大坂から届けられた情報を基に、いよいよ三成の挙兵は疑いなしとなったところで家康は戦闘停止命令を出し、25日に諸将を集めて今後の対応についての軍評定を開いた。これは下野国の小山に着陣中だったことから『小山評定』と呼ばれている。家康はそこで諸将に三成が秀頼を推戴して挙兵したこと、毛利輝元が総大将に擁立されていること、従軍諸将の妻子が大坂に軟禁されていることなどを話し、輝元・三成側につくか、それとも家康につくか、去就は自由であるとして各人の判断に委ねたのである。
そのとき福島正則が進み出て「家康殿に味方する」と発言、次々に発言する者もみな同意見であった(一説には、口火を切ったのは上条政繁ともいう)。しかも、遠江国掛川城主・山内一豊などは「東海道を攻め上るにあたっては城と兵糧が必要になる。ついては私の城を進上しよう」と言って家康を喜ばせている。軍議はこうして軍勢を西へ転じて三成を討つことに決したのである。

この小山評定において徳川方(東軍)と石田方(西軍)、両陣営の顔ぶれがほぼ確定した。徳川方には徳川家臣団に加え、会津征伐に従軍した軍勢のほぼ全てが属すこととなったが、その反面ではこの争乱に乗じ、これまで大勢力に臣事することを余儀なくされていたかつての大名格の者やその旧臣なども独立を企図した動きも見せる。さらには家の存続を図るために親子兄弟などで分かれて両陣営に属したり、あえて旗幟を鮮明にしようとしない勢力もあったりと、さまざまな動きがあった。
その勢力分布としては、本営の大坂城には小西行長立花宗茂長曾我部盛親脇坂安治・秋月種長・高橋元種・相良頼房・島津義弘ら、会津征伐には従軍せず大坂に駐留していた西国の諸将が参じ、奥州では会津の上杉氏、信濃国では真田昌幸幸村父子(昌幸の子・信幸は徳川方)、北陸地方では大谷吉継や丹羽長重、中部・近畿地方では増田長盛・長束正家ら豊臣政権における吏僚や織田秀信、中国地方では毛利氏、九州では大友義統などが西軍に与することとなった。もっとも、これらの諸氏には明確に石田三成に賛同したというのではなく、西軍の本営となった大坂に駐留していたがために已むに已まれず西軍に加担することになった者や、政権を私物化しようとする家康に反発して「反徳川」の立場として兵を興した者も少なくない。よって、この関ヶ原の役とは東軍(徳川)対西軍(石田)というよりも「親徳川派」対「反徳川派」の戦いと見るべきであろう。

挙兵した三成ら西軍の戦略は、畿内を固めるとともに関東方面へ向けて進出することとし、以後は東軍の行動に応じて対応するというものであった。まずは畿内を制圧するため、その最初の標的とされたのが伏見城である。
伏見城が攻撃を受けたのは小山評定以前の7月19日からで、城はなかなか落ちなかったが、29日には三成自ら出馬して猛攻撃が加えられ、ついに8月1日、城将の鳥居元忠をはじめ、本丸にいた350人の城兵は悉く討死した。これを伏見城の戦いと呼び、西軍方の血祭りにあげられた戦いであった。
また、この伏見城攻めと並行して丹後国への侵攻が図られているが、田辺城に拠って堅守を布く細川藤孝を攻めあぐねている(田辺城の戦い)。

東軍陣営においては、小山評定で三成を討つ方針が決すると、上杉氏への抑えとして結城秀康らを下野国宇都宮に残すとともに伊達政宗・最上義光らに上杉氏を警戒させ、軍勢を転じるにあたっては徳川秀忠を主将とする一軍を東山道から進ませるとともに、家康自身が主力部隊を率いて江戸を経由して東海道を西上し、美濃国で合流することとした。
家康は福島正則・池田輝政・浅野幸長・黒田長政らを東海道軍の先鋒に任じて先発させ、自身が小山を発ったのは8月4日であった。しかし、翌日に江戸城に帰着するとそのまま留まって行軍を再開しようとせず、状況を静観するかのような態度に出ているが、これは上杉勢の追撃を警戒したものと思われる。
家康は上杉勢による追撃の対策として最上・伊達らに背後から牽制させ、結城秀康を置いて追撃を扼させてはいたが、景勝はこの最上・伊達が背後にあることを承知のうえで敵対する姿勢を示したはずである。さらには常陸国の佐竹義宣の去就にも怪しむところがあり、仮に家康が江戸を発向したのちに上杉・佐竹が連合して追撃してくるようなことがあれが形勢は大きく変わることとなり、すでに西進している軍勢の中にも西軍方に転じる者が出てくることは必定である。
また先発隊諸将の向背にも危惧を抱いていたようであり、8月14日に尾張国清洲城に入城して家康の出陣を待っていた福島正則らに対して村越直吉を派遣し、西軍方の美濃国岐阜城を攻略させるように仕向けたのである。
これを受けた正則らが23日に猛攻をかけて岐阜城を陥落させた(岐阜城の戦い)ことで自身への忠誠を確認し、また上杉・佐竹に西進の動きがないであろうことを判断したうえで行軍を再開したのは9月1日になってからであった。

この間にも、諸国では東軍陣営と西軍陣営の抗争が始まっていた。
加賀国では8月に入ると大聖寺城の戦いや浅井畷の合戦が起こった。この加賀国での抗争は9月中旬にまで及び、このために東軍に与する北陸地方の大大名・前田氏の戦力が釘付けにされることとなった。
伊勢国では8月19日より西軍勢力の主力ともいうべき毛利秀元・吉川広家・鍋島勝茂らが、東軍に属した富田信高の居城・安濃津城を攻めており、25日には大軍を擁した西軍が無勢の安濃津城を開城降伏させている(安濃津城の戦い)。
信濃国においては西軍勢力となった真田昌幸が上田城に籠もっていたが、これを東軍の中山道軍を率いる徳川秀忠が攻めたが陥落させることができず、数日を空費したあげくに上田城攻略を諦め、美濃国へと軍勢を向けた(上田城の戦い:その2)。これが9月8日のことといわれ、結局、この軍勢は東海道軍との合流を果たせなかった。
近江国では、西軍に身を置いていた京極高次が9月3日に突如として東軍に転じ、居城の大津城に籠城した。この高次の行動は家康との密約に基づいたものとされている。高次の転身を知った西軍陣営は軍勢を差し向けるとともに慰留の使者を送ったが、高次が応じなかったため、8日より攻撃に踏み切ったのである(大津城の戦い)。
出羽国においても争乱が生じている。会津征伐軍の圧迫から解放された上杉氏が、東軍に与した最上義光領を侵攻するべく、9月9日より打って出たのである(出羽合戦)。
豊後国においては大友義統が8月中旬より旧領回復を企てる動きを見せていたものの、東軍に属した黒田長政の父・黒田孝高によって9月13日に鎮圧された(石垣原の合戦)。

伏見城を陥落させたのち、三成は8月9日に6千ほどの兵を率いて美濃国の垂井に到着、11日には大垣城を前線の防衛拠点と定め、ここに軍勢を集結させるよう指揮を執っていた。23日には大兵を率いた宇喜多秀家が参着したことによって意気が上がるが、翌24日には大垣城に近接する赤坂の地に、岐阜城を陥落させた東軍の先鋒隊・福島正則らの軍勢が現れる。この軍勢は大垣城に対峙し、家康の到着を待っているのであった。
その家康は9月1日に3万の軍勢を率いて江戸城を発向、6日には駿河国島田、11日には尾張国清洲を経て先鋒隊の待つ赤坂に向かっていた。西軍方においても、畿内や伊勢国にあった軍勢が5日前後より美濃入りするなど、双方が美濃国での激突を想定して集結しつつあったのである。
そして、14日の正午頃に家康が赤坂に到着した。それを知った三成は重臣・島清興に、大垣と赤坂の中間に位置する杭瀬川への出撃を命じた。この杭瀬川の対岸には東軍の一部が宿営しており、この軍勢を破って緒戦を飾ることで士気の鼓舞を図ったという。
清興は陽動作戦を用いて東軍の軍勢を破り、三成の期待に応えている(杭瀬川の合戦)。

その夜、「赤坂の東軍は大垣に抑えの軍勢を残して進軍し、佐和山城を攻めたうえで大坂に向かう」との情報をつかんだ西軍陣営は、大垣城に福原長尭以下7千5百ほどの守備兵を残し、それ以外の全軍をもって東軍の進軍を扼すために関ヶ原に出陣した。
しかし、これも家康の謀略であった。
兵の籠もる城を力攻めにするには籠城兵の10倍ほどの兵力が必要であるともいわれ、時間も要する。大垣城を力攻めにしている間に毛利輝元が軍勢を率いて参着すれば挟撃される危険もあり、さらには豊臣秀頼の出馬などあろうものなら家康は大義名分を失うこととなり、東軍が一気に瓦解するのは明らかであった。
これを危惧した家康は野戦に持ち込んで一気に勝敗を決することを図り、そのためにわざと佐和山城を攻めるという虚偽の情報を流し、西軍を大垣城から誘き出したのであった。
西軍が関ヶ原への進出を始めたという報を得た家康は、東軍の軍勢にも関ヶ原への出陣を命じたのである。

そして9月15日、ついに徳川家康と石田三成が雌雄を決することとなる関ヶ原の合戦が開戦した。
東軍7万4千、西軍8万4千ほどの軍勢が臨んだこの合戦は、はじめ互角の様相を見せていたが、西軍に属していた小早川秀秋が正午頃に東軍へ寝返ったことにより戦況が一挙に傾いて西軍は壊滅、この関ヶ原での合戦自体は9月15日の1日のみで勝敗が決したのである。
午後3時頃までには西軍の諸隊は関ヶ原から姿を消していた。家康は天満山の西南、藤古川の台地に本営を移し、そこで諸将を引見した。
西軍の敗因は従軍した諸将を掌握しきれなかったことにあり、寝返りが更なる寝返りを呼んで総崩れとなった。また、糾合した諸将の軍勢が分散していたことも誤算であった。大津城の戦いは15日未明に開城降伏したことによって決着したが、西軍1万5千の軍勢は近江国に足止めされていたことになり、田辺城においても、やはり1万5千の軍勢が丹後国に未だ張りつけられていたのである。
東軍は17日、佐和山城を攻めた。攻城軍は小早川秀秋以下、脇坂安治・朽木元網・小川祐忠ら合戦中に寝返った面々で、とくに後者の彼らは合戦の終盤になって寝返ったという汚名を雪ぐためであったのだろう、自ら佐和山城攻めを志願したという。
佐和山の城兵は2千8百で、三成の父・正継や兄・正澄が守っていたが、あえなく落城した。
また同日、西軍の拠点となっていた大垣城では相良頼房・秋月種長らが熊谷直盛・垣見家純・木村勝正らを殺害して東軍に投降を求め、その日のうちに開城している。

9月20日、家康は大津城に入城した。ここを仮の本営として、戦後処理を行うためである。
関ヶ原の合戦において石田三成らの軍勢を破ったとはいえ、大坂城には西軍総大将・毛利輝元がいる。そしてその輝元は、豊臣秀頼を戴いているのである。そもそもこの関ヶ原の役は豊臣政権の一重臣としてて企図したものである。家康はここで秀頼をも凌駕するつもりは毛頭なかったが、もしも輝元が秀頼の名の元に家康討伐の軍勢を興せば、家康は「賊軍」の汚名を着せられてしまい、共に関ヶ原を戦った東軍諸将さえをも敵に回すことになってしまうため、早々に秀頼と輝元を引き離さなければならなかった。
家康は大津入城に先立つ17日より黒田長政・福島正則・藤堂高虎ら東軍諸将に腹心の井伊直政本多忠勝を加えて輝元との折衝にあたらせ、「この度の争乱の原因は石田三成らの逆心によるものであるから輝元の責任は問わず、毛利氏の所領も保証する」との条件で輝元に退去を承知させ、24日には大坂城を無血開城させることに成功したのである。
9月27日に大坂城入りした家康は秀頼と会見し、ついで西の丸を居所と定め、二の丸には秀忠を置き、それとなく大坂城を「占拠」したのだった。

関ヶ原の合戦ののちに消息不明となっていた西軍首脳の小西行長が捕まったのは9月19日、三成も21日に伊吹山中で捕えられ、23日には恵瓊も京都で捕まった。
三成・行長・恵瓊の3人が処刑されたのは10月1日のことであった。3人は洛中を車に乗せて引き回された末、六条河原の処刑場に運ばれて斬首された。しかもその首は三条大橋に晒されたのである。

ところで、家康はこの役後に大掛かりな戦後処理を行っている。西軍に与した大名87家の領地414万6千2百石を没収し、この没収地のほとんどは今回の役において東軍に与した旧豊臣系の諸大名や、徳川譜代の武将にも加増地として配分された。これによって徳川氏、また親徳川系大名の勢力基盤が飛躍的に拡大した。その反面、豊臣秀頼の国力が大きく削がれ、豊臣氏という一大名の規模にまで転落することとなった。
家康はこの争乱を巧みに利用することで、のちの徳川幕藩体制の基礎固めを公然と行ったといえよう。