大野治長(おおの・はるなが) ?〜1615

豊臣家臣。大野治房の兄。従五位下・修理亮。
母・大蔵卿局が羽柴秀吉の側室となった淀殿の乳母、という縁から秀吉の馬廻衆として仕えた。
天正19年(1591)10月に秀吉の美濃・尾張・三河国の遊猟に随行し、文禄3年(1594)の春には京都伏見城の工事を分担している。当時の石高は1万石。
慶長4年(1599)正月、秀吉の遺児・豊臣秀頼に伺候。同年10月、浅野長政と共に徳川家康暗殺の嫌疑を受けて下野国結城に追放されたが、翌年の関ヶ原の役のまえに釈放され、家康の会津上杉征伐に従軍した。
のち豊臣秀頼の側近として仕え、豊臣氏と徳川氏の折衝にあたっていた片桐且元が慶長19年(1614)10月に失脚した後は豊臣(大坂)方の中心人物となり、大坂冬夏の陣においては軍事・外交などの諸事を勤め、多岐に亘って指導的役割を果たした。とくに冬の陣の和議締結においては、織田長益(有楽)と共に子息を人質として提出している。
夏の陣においては淀殿・秀頼母子の助命に奔走したが成すことができず、慶長20年(=元和元年:1615)5月8日、秀頼に従って殉死した。
茶人として茶道を古田重然(織部)に学び、奥義を究めたという。