織田信秀の子。織田信長の弟。通称は源五(源五郎)。従四位下・侍従。号は有楽(うらく)斎如庵。
武人としてよりも茶人として名を馳せた。
はじめ信長の武将として、天正10年(1582)の甲斐武田征伐などに参加。天正9年(1581)の京都において行われた馬揃えにも連枝衆として参加している。
天正10年の本能寺の変のときには、京都にいたが幸運にも逃れることができた。
そののちには羽柴秀吉に仕えて摂津国島下郡味舌で2千石の知行地を与えられたという説や、甥の織田信雄に仕えて尾張国などで1万3千貫の知行を与えられたとする説があるが、いずれにしても、天正18年(1590)頃には秀吉に仕えている。
同年、出家して有楽斎如庵と号した。
文禄の役においては肥前国名護屋城に駐屯した。
茶人・千利休から台子の作法を伝授したといわれ、利休の亡き後は秀吉の茶の湯を司った。
秀吉の死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600)の関ヶ原の役では徳川方(東軍)に与して戦後に本領を安堵されたほか、大和国山辺郡で加増されて3万石の大名となった。しかし豊臣秀頼の母・淀殿の叔父にあたるとことから大坂(豊臣方)にも属す部分も併せ持ち、大坂城に居して秀頼を補佐する傍らで大坂方の情報を徳川方に流した。
徳川氏と豊臣氏の関係が険悪なものになると、秀頼母子に徳川氏と敵対することの不可を説いて開戦の回避に努めたが成らず、慶長19年(1614)の大坂冬の陣が勃発。開戦後も大坂城中にあって大坂の内情を徳川方に伝え、家康の意向を受けて和議の斡旋に尽力した。
間もなく和議は破れて夏の陣が起こるが、この直前に大坂より退去している。
晩年は京都で茶事に余生を送り、元和7年(1621)12月13日、京都東山で没した。
子孫は大和国芝村、柳本の藩主として幕末まで存続した。
長益は家康から江戸に屋敷を与えられたが、その跡が有楽町と名づけられた。
また茶説・茶法は甥の織田貞置によって『貞置集』にまとめられており、貞置は長益を祖とする茶の湯の一派を開いた。