織田信秀(おだ・のぶひで) 1510?〜1551?

織田弾正忠家・織田信定の嫡男。通称は三郎。織田信長の父。弾正忠・備後守。
尾張国織田氏の宗家は三管領家の一つの斯波氏に属し、尾張国の下4郡(尾張半国)の守護代・織田大和守達勝の家臣筋にあたる弾正忠家は勝幡城に拠って湊町・津島を支配下に置き、そこからもたらされる恵まれた経済力を後ろ楯にして勢力を伸張させた。
大永6年(1526)3月、津島に連歌師の宗長が立ち寄った際、旅宿としていた正覚院に挨拶に赴き、礼物を贈呈している。父・信定の没年は天文7年(1538)とされているが、一説にはこの大永6年頃に家督を継承したともされる。
天文元年(1532)には主家である織田達勝と戦い、翌年には和睦している。また天文2年(1533)7月から8月にかけては自らの主導で京都から公家の山科言継と飛鳥井雅綱を招いて饗応していることなどから、この頃までには主家に匹敵するほどの権勢を扶持していたことが窺える。
天文7年(1538)頃、今川氏豊の尾張国那古野城を奪い(一説には天文元年:1532)、尾張国の東域へ勢力圏を拡大した。
国外への勢力拡大にも意欲を燃やし、天文9年(1540)6月に三河国安祥城を攻略(安祥城の戦い)、天文11年(1542)には三河国小豆坂に今川義元勢を破り(小豆坂の合戦)、三河国西域を制圧した。
その一方で美濃国方面にも目を向け、数度の出兵を行って斎藤道三と干戈を交えている。天文16年(1547)には美濃国稲葉山城下まで迫ったが、激戦の末に斎藤勢に敗れた(加納口の合戦)。斎藤道三とはこの翌年、道三の娘・帰蝶(濃姫)を信長に娶わせることで和睦を結んだ。
また天文18年(1549)、三河国安祥城を今川氏の庇護を受けた松平勢や太源雪斎に奪い返されている(安祥城の戦い:その2)。
尾張国統一を目指したが天文20年(1551)3月3日、尾張国末森城で没した。享年42。法名は万松院桃巌道見。
生年に永正5年(1508)や永正8年(1511)、没年に天文18年(1549)や天文21年(1552)などの異説があって判然としないが、享年42というのは定説のようである。