太原雪斎(たいげん・せっさい) 1496〜1555

駿河国臨済寺の開祖。崇孚(すうふ)とも呼ばれる。九英承菊・宝珠護国禅士。父は庵原氏、母は興津氏。
はじめ駿河国富士郡善得寺の琴渓舜禅師に、梅岳承芳(のちの今川義元)と共に学び、のち京都東山建仁寺の竜堂常庵和尚について修行を重ね、ここで九英承菊と称した。妙心寺霊雲院で大休宗休について参禅し、印可を受けて弟子となった。
雪斎は単なる禅僧ではなく、今川氏の執権、戦略家として知られる。これは天文5年(1536)に今川義元が兄・氏輝の後継者となって氏輝の墳寺として臨済寺を建立、雪斎を住持として招いたことに始まる。
以後、今川氏の執権として義元を補佐した。雪斎は禅僧であると同時に優れた兵法家・戦略家でもあり、隣接する武田氏・北条氏・織田氏との対戦に活躍する。特に天文17年(1548)の小豆坂の合戦では義元の将として織田信秀の軍勢を破り、翌年(1549)には安祥城を攻めて織田信広を捕虜とし、捕われていた松平竹千代(徳川家康)を人質交換によって取り戻したという(安祥城の戦い:その2)。
天文19年(1550)の春には妙心寺35世に出世、3日間滞在し、その後も臨済寺の住職として同寺に住した。
晩年には志太郡葉梨の長慶寺に隠棲し、天文24年(=弘治元年:1555)10月10日、60歳で寂した。