今川氏輝(いまがわ・うじてる) 1513〜1536

駿河・遠江国の戦国大名。今川氏親の子。母は京都の公卿・中御門宣胤の娘。幼名は竜王丸。通称は五郎。
大永5年(1525)11月20日に元服して氏輝と名乗る。
大永6年(1526)6月の父・氏親の死没により、今川氏の家督と駿河・遠江国の守護職を継承した。しかし若年であったために家中を十分に統制できず、氏親の死没後に落飾して寿桂尼と称していた母が国政の後見役を勤めた。この寿桂尼の意向か、翌大永7年(1527)に父の時代から抗争の続いていた甲斐国の武田信虎との和睦が成されている。しかし今川氏と提携関係にあった相模国の北条氏は未だ武田氏と対立していたことから、この和睦は一時的な休戦であったと目されている。
天文元年(1532)頃より氏輝が国政を執るようになり、天文2年(1533)には遠江国で検地を施行、また、北条氏綱と共に朝廷に3万疋を献上した。
天文3年(1534)7月、甲斐国に侵攻。駿河・遠江・伊豆3ヶ国1万余の軍勢を率いて出陣、一戦ののち帰国したという。
天文4年(1535)8月には、駿河国に向けて侵攻してきた武田信虎と駿河・甲斐の国境で交戦。明確な決着はつかなかったようであるが(万沢口の合戦)、連携して甲斐国の都留郡へと侵攻した北条勢が戦果を挙げている(山中の合戦)。
天文5年(1536)2月上旬、北条氏綱と会見するために相模国小田原へ赴く。1ヶ月ほど滞在したのちの3月上旬に帰国するが、それから10日ほどしたのちの3月17日に急死した。享年24。
嗣子がなかったため、同年5月には今川氏の家督をめぐって弟同士が争う「花倉の乱」が勃発することになる。