今川義元(いまがわ・よしもと) 1519〜1560

駿河・遠江守護を兼ねた今川氏親の子(四男か)。幼名は芳菊丸(方菊丸)。従四位下・上総介・治部大輔・駿河守・三河守。
幼時に出家させられて駿河国富士郡の善得寺で栴岳承芳と号していたが、天文5年(1536)3月に当主で兄の氏輝が没すると、同年6月に次兄の僧・玄広恵探と家督相続をめぐって争い、これに勝利して還俗して義元と名乗り、今川氏を継いだ(花倉の乱)。
その翌年には父・氏親の時代より対立していた甲斐国の武田氏との関係を改善を図り、武田信虎の娘を娶った。このため年来の同盟者であった北条氏との関係が悪化、北条氏綱に駿河国を侵攻されたが、天文14年(1545)に至って上杉憲政と提携して氏綱の後継・氏康を挟撃する戦略を展開し、北条氏の勢力圏を駿河・伊豆の国境線にまで押し戻した。
三河国の戸田・牧野・松平・水野ら諸氏とは同盟関係にあったが、北条氏との抗争中に尾張国の織田信秀の勢力が侵出してきたため、三河国において攻防を繰り返すことになった。
天文16年(1547)、人質として今川氏に届けられることになっていた松平竹千代(のちの徳川家康)を奪取して信秀に与した戸田氏を滅ぼし、天文18年(1549)3月に松平広忠が横死すると松平氏を服属させ、同年11月には織田信広の拠る安祥城を攻略(安祥城の戦い:その2)、三河一国をほぼ支配下に収めることに成功。天文20年(1541)3月に織田信秀が没した後は、その混乱に乗じて尾張国東部にまでその勢力を浸透させた。
天文23年(1544)の北条・武田・今川の婚姻関係に裏打ちされた同盟(甲駿相三国同盟)の成立によって領国東方の安定を得た義元は、弘治年間に3ヶ国の検地を行うなど、戦国大名・今川氏としての最盛期を形成した。
義元の武略と腹心・雪斎の助けにより駿河・遠江・三河に確固たる基盤を形成し、『東海一の弓取り』と謳われたが永禄3年(1560)5月19日、上洛途上の尾張国桶狭間で織田信長軍に急襲されて敗死した(桶狭間の合戦)。42歳。法号は天沢寺秀峯哲公。義元廟は静岡市臨済寺と東京都観泉寺にある。
桶狭間での敗戦や、京風文化を好んで顔も公卿風に化粧するなどしたために負の印象で捉えられがちだが、領内の検地を徹底して行うことで家臣の軍役の増加と年貢徴発の支配力を強化、名主層を寄親寄子制にすることによって軍事力の強化を図った。また経済政策としては、殖産興業や安部・富士金山の開発、商工業者統制の強化、交通制度の整備をするなど、武将としては決して凡庸ではなかった。天文22年(1543)2月には父・氏親による『仮名目録』を補完する『仮名目録追加』21ヶ条を制定している。
また、氏親が花押の代用として「印判」を使い始めたのは著名であるが、義元も数種の印判を用いた。このなかに『如律令』という印文のものがあり、これは悪霊退散といった意味のものであるという。この印判は子の氏真にも引き継がれた。