今川氏真(いまがわ・うじざね) 1538~1614

今川義元の子。母は武田信虎の娘。駿河領主。幼吊は龍王丸。通称は五郎・小五郎。
永禄3年(1560)5月に従五位下に叙し治部大輔に任官、上総介を称した。
永禄元年(1558)には既に駿河の国政を委ねられていたというが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦による父・義元の敗死によって家督を相続。これによって駿河・遠江・三河の3国を領有することとなったが、武将としての器量に欠け、永禄7年(1564)に独立した松平元康(徳川家康)に三河を奪われ、家臣の掛川城主・朝比奈泰朝を頼った。また、老臣・三浦義政の専横を許して家臣の離反を招いた。
永禄10年(1567)には武田信玄との同盟関係が破棄され、家康と提携した信玄のために11年(1568)末に駿河を奪われた(薩埵峠の合戦~今川館の戦い)。この間、遠江国掛川城(懸川城)に再度、家康の攻撃を受けて(掛川城の戦い)伊豆国戸倉に移っている。
のちに妻の実家である北条氏の保護を受けるが、北条氏政の代になると、北条氏は武田氏と同盟。これによって氏真は北条氏より放逐され家康のもとに身を寄せた。
天正3年(1575)頃に家康のもとを離れて京都に居住し、薙髪して宗誾と号した。その後、家康によって三河国牧野城を与えられたが、のちに再び上京し慶長12年(1607)まで在京した。
その後、家康より武蔵国品川に屋敷を与えられて江戸幕府に出仕。屋敷の地吊から品川殿とも呼ばれた。
慶長19年(1614)12月28日、江戸で没した。77歳。法吊は仙巌院豊山泰栄大居士。
蹴鞠の達人だったという。また1千数百首の和歌を残すなど文芸の才に秀でており、戦国武将というよりは文化人であった。