永禄3年(1560)の桶狭間の合戦での敗戦、当主の義元を失った今川氏の勢力は見る間に衰退していった。今川氏当主の地位は嫡男の今川氏真が継いだが、戦国の世において膨れ上がった自家勢力をまとめていくだけの器量がなかったのである。
それを見た甲斐国の武田信玄はそれまでの同盟関係を反故にし、今川領の併呑を企図した。信玄は永禄11年(1568)2月には織田信長の仲介によって三河国の徳川家康と密約を結び、大井川を境として東側の駿河国を信玄が、西側の遠江国を家康が攻め取ろうという協定を結んだのである。そして、12月早々には駿河国に攻め入るので、家康も機を逸することなく出馬してほしい、とも通達した。
信玄は11月の末に出発しようとしていたが、膈の病の症状が現れたので延期し、12月6日に軍勢を率いて甲府を発向、駿州往還を南下して12日には駿河国内房に布陣している(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)。
この情報を得た今川氏真は、これを迎撃すべく庵原安房守を大将とする1万5千の軍勢を薩埵峠に向かわせた。さらに小倉資久・岡部直規を大将とする7千の兵を薩埵峠の北に位置する八幡平に配置、氏真自身も興津の清見寺まで出陣し、薩捶峠で武田軍の南下を食い止めようと画策したのである。また、これと併せて妻の実家である相模国の北条氏に援軍を要請している。
両軍の戦いは12日に始められ、武田軍先鋒の馬場信房隊が川入城を攻め、これを陥落させた。この緒戦の勝利で勢いに乗った武田軍が薩捶峠を攻め上ると、大きな衝突もないままに今川勢が崩れて敗走を始めてしまったのである。これは、信玄が事前に内応工作を働きかけていた朝比奈信置や葛山氏元らが寝返ったためであった。
氏真は駿府の今川館に逃げ帰ると、その背後にある賤機山城に籠もって同盟軍・北条氏政の援軍を待つ心積もりだった。しかし武田軍は先手を打って賤機山城を押さえてしまっていたので、氏真は城としての防禦機能を持たない今川館で迫り来る武田軍を迎え撃たなければならない羽目に陥ってしまったのである。
そして翌13日、追撃してきた武田軍に攻められて今川館はあっけなく陥落し、氏真は重臣・朝比奈泰朝の拠る遠江国掛川城へと落ち延びていった。