武田信玄の駿河国侵攻戦:その1

永禄3年(1560)5月の桶狭間の合戦で、駿河・遠江・三河国の守護を兼ねる今川氏の当主・今川義元が討死した。今川氏の家督は義元の嫡男である今川氏真が継承したが、戦国時代の大名としての資質は凡庸であったため、麾下の武将であった松平元康(のちの徳川家康)の独立を許して三河国を奪われるなど、家臣の統制に苦しみ、衰勢に向かっていた。
これを見た甲斐国の武田信玄は、駿河国への侵攻を画策した。武田氏と今川氏は天文21年(1552)に婚姻を結んで以来の同盟関係にあり、義元討死後の永禄3年6月にも同盟の継続を確認しているが、永禄6年(1563)12月より遠江国で国人領主らが相次いで離反・反抗を起こすようになると信玄はその動きを注視し、その後の情勢如何では駿河国に侵攻する意向を示しており、衰退の一途をたどる今川氏を見限っていた感がある。
東海地方進出への布石か、武田氏は尾張・美濃国を領す織田信長との関係を強化し、永禄8年(1565)11月には四男・武田勝頼の室に信長の養女(遠山直廉娘)を迎えた。今川氏にとって織田氏は、桶狭間の合戦で義元を敗死させた仇敵である。また、時をほぼ同じくして、武田家中では信玄の長男・武田義信らによる謀叛計画が露見した。義信は今川義元の娘を妻として氏真とは義兄弟であることからも親今川派であり、この義信が叛意を強めたのは今川領への侵攻策、織田氏との同盟とは無縁ではないだろう。発覚後に義信は幽閉され、義信の側近であった飯富虎昌や曽根周防守らが自刃させられている(武田義信幽閉事件)。
これらのことは今川・武田両氏の緊張をさらに高めることとなり、永禄10年(1567)8月には今川氏が武田領への「塩留め」を実施、ここに両者の断交が決定的なものとなる。そして同年10月19日、武田義信が幽閉先の甲府東光寺で死去した。自害とも病死ともされて真相は詳らかではないが、両氏の溝はさらに深まり、同年12月には今川氏が武田氏と敵対関係にあった越後国の上杉謙信との同盟交渉を始め、一方の武田氏は、永禄11年(1568)2月に徳川氏との間で今川領への共同侵攻ならびに領土分割の協定を結んだのである。

そして永禄11年12月6日、信玄は娘婿の穴山信君を先陣として、ついに駿河国への侵攻に踏み切った。同月12日には薩埵峠で今川勢を撃破し、翌13日には氏真を遠江国掛川城に逐って駿府を制圧した(薩埵峠の合戦~今川館の戦い)。
しかし、かつて武田氏・今川氏と相互に同盟を結んでいた相模国の北条氏康が今川氏との同盟を堅持して武田氏と断交、今川方として参戦してきたのである。北条氏の対応は早く、北条氏政率いる軍勢が12日に相模国小田原城を発し、その先陣は14日には駿河国蒲原城に入城。この北条軍は27日には武田軍が進軍してきた薩埵峠を制圧し、甲斐国への退路を扼した。
この北条氏の動きに危機を察した信玄は外交戦術に出る。同月19日には北条氏に遺恨を持つ常陸国の太田資正に北条氏の背後を脅かすように誘い、23日には徳川家康に掛川城の氏真を攻めるように要請している。翌永禄12年1月には家康の同盟者でもある織田信長に宛てて書状を出し、家康への遠慮から遠江には進軍せずに駿河に留まっていると述べているが、これは窮地に在ったことの裏返しであろう。
2月には兵站を確保すべく、穴山信君らに命じて甲斐・駿河国境を扼していた今川方武将・富士信忠の守る大宮城を攻めさせたが、攻略はできなかった(大宮城の戦い)。
3月に入ると佐竹・宇都宮・里見氏らに北条氏の本拠である小田原城を攻めるように要請し、10日には信長や将軍・足利義昭を介して上杉謙信との和睦を試みているが、この間も北条氏は東からの圧迫を緩めることなく、駿府北方の安倍奥でも地侍を中心とした一揆が挙兵するなどしており、駿府に閉じ込められるかたちとなった情勢に苦慮していたことがうかがえる。

有効な打開策を見いだせないまま4月となり、信玄は駿府からの撤退を決断した。19日には興津横山城の穴山信君と久能山城の板垣信頼に、再度駿河に侵攻するまでそれぞれの城の堅持を命じ、24日に撤退を開始した。28日には甲府に帰還しているが、進軍時の行路は北条軍によって抑えられていたために庵原郡から山越えで甲斐国の徳間に出て帰還したともいう。
武田軍が撤退すると北条軍も薩埵山の陣を引き払い、蒲原城に兵を残して撤退した。
また、信玄が去ったあとの駿府は徳川軍が占領し、氏真を駿府に復帰させるとの条件を示して5月15日(一説には17日)に掛川城を開城させている(掛川城の戦い)。