永禄11年(1568)12月に甲斐国の武田信玄が甲駿相三国同盟を破棄して今川氏真領の駿河国に侵攻した際(武田信玄の駿河国侵攻戦:その1)、朝比奈信置や葛山氏元をはじめとする今川家臣の多数が信玄の調略に乗って武田方となったこともあり、駿府はあっけなく陥落した(薩埵峠の合戦~今川館の戦い)。しかし、今川氏麾下の富士信忠は氏真が武田勢に逐われて遠江国掛川城に逃れたあとも抗戦の構えを示し、自城の駿河国大宮城に籠城して甲斐・駿河国境を扼し続けていた。さらには三国同盟のもう一方の勢力である北条氏康も武田氏と決別、駿河国駿東郡に進出して富士信忠を支援したために、武田勢の兵站が圧迫されることとなったのである。
この事態を打破するため、信玄は重臣の穴山信君と、今川方から武田方に寝返った葛山氏元に大宮城の攻略を命じた。これを受けて穴山・葛山の連合軍は永禄12年(1569)2月1日に大宮城を攻撃したが、富士勢の頑強な抵抗の前に撃退された。
この間、信玄は駿府に在って薩埵峠に布陣した北条勢と対陣していたが、大宮城の攻略成らずと知ると、兵糧の欠乏や挟撃を危惧して駿府の確保を断念し、興津城や久能山城などの拠点に穴山信君や板垣信安らを配置し、4月下旬に甲府へと撤退した。帰路は富士・北条勢に塞がれていたため、山道を切り開きながら樽峠を越えての退却であったという。