北条氏康(ほうじょう・うじやす) 1515〜1571

後北条氏(小田原北条氏)の第3代当主。北条氏綱の嫡男。幼名は伊豆千代丸。通称は新九郎。従五位下・相模守・左京大夫。隠居後は剃髪して万松軒と号す。相模国小田原城主。
「表は文、裏は武の人で、刑罰(治政)清く遠近みな服す。天下無双の覇王」と評され、初陣の小沢原の合戦から一生の間に36度の合戦に出撃して一度として敵にあげまき(鎧の背の部分)を見せたことがなかったという、不敗の勇将。軍の先頭に立って敵にあたり、身には刀槍の傷7ヶ所を負い、面には2ヶ所の傷があった。
享禄3年(1530)頃に元服したと見られ、天文年間(1532〜1555)の初期頃に今川氏親の娘を妻に迎えた。
天文6年(1537)頃より領主としての政務に関与するようになり、天文10年(1541)7月、父・氏綱の死により家督を継ぐ。家督相続後は父祖の遺業を受け継ぎ、関東地方における勢力拡大に邁進した。
天文14年(1545)、今川義元との駿河国河東(富士川以東)の地域をめぐる紛争が再燃し、義元が上杉氏らと結んだため勢力圏を挟撃されるという危機に陥ったが、武田信玄の斡旋により解決を得る。
天文15年(1546)4月、河越城の夜戦足利晴氏・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定らの軍勢に壊滅的打撃を与え、関東における北条氏の優位を鮮明にした。
天文21年(1552)には上杉憲政の本拠・上野国平井城を攻略して越後国に逐い、関東8州を勢力に収める。また、足利晴氏に対して子の義氏(母は氏康の妹)に家督を譲らせ、国人領主の大石氏には三男の氏照を、藤田氏には四男の氏邦を入嗣させるなど、外交政策をも駆使して関東の旧勢力を駆逐、あるいは掌握した。
天文23年(1554)には武田信玄・今川義元と甲駿相三国同盟を結び、勢力圏西方の安定を確固たるものとした。
永禄2年(1559)12月23日、家督を嫡子・氏政に譲って隠居した。しかし実権は持ち続けており、この家督譲渡は形式的なものであった。
永禄4年(1561)、小田原城を越後国の上杉謙信らに包囲されたが堅守(越山:その1)。
今川義元が敗死したのち、信玄が義元の子・氏真を攻めたために三国同盟は崩壊するが、氏康は氏真を援けて信玄に対抗することになる。永禄12年(1569)閏5月には信玄を共通の敵と位置づけて、かつて敵対していた上杉謙信と結んで信玄を牽制した。
民政家としても優れた手腕を見せ、他の諸大名に先駆けて本格的な検地と税制改革を行い、経済政策にも力を入れるなどして領内の商業基盤を堅固なものとし、後北条氏の全盛期を築いた。
元亀2年(1571)10月3日に病没。享年57。法名は大聖寺殿東陽宗岱大居士。