越山(えつざん):その1

永禄3年(1560)8月末、越後国の上杉謙信(当時の名乗りは長尾景虎)は、天文21年(1552)に北条氏康によって上野国平井城を逐われて逃れてきた関東管領・上杉憲政や北条氏の圧迫に苦しむ下総国の簗田晴助、武蔵国の太田資正、常陸国の佐竹義昭、安房国の里見義堯らの来援要請を容れ、8千余の軍勢を率いて関東へと進発した。
この上杉謙信による越後国から関東地方への出兵は『越山』と呼ばれ、その目的は関東地方の静謐、とりわけては伊豆国から相模国、武蔵・上野国と勢力を広げつつある北条氏を打倒することであった。

関東に入った謙信は、9月上旬に上野国の明間・岩下・沼田(倉内)城を制圧した。この勢威に国人領主らの多くが服属したため、上野国は謙信によってほぼ掌握されるところとなったのである。この国人領主らが謙信へ帰属しようとする動きは、武蔵国にも伝播する。
北条氏康は同年5月より里見義堯の拠城・上総国久留里城を攻めていたが、この情勢を危惧して久留里城攻めを中止して軍勢を返し、9月28日に武蔵国河越に出陣し、謙信を牽制している。
上野国の中域に進んだ謙信は12月上旬に那波氏の拠る赤石城を攻略。ついで14日、謀叛の嫌疑があった厩橋の長野彦九郎(または彦太郎)を討って厩橋城を接収、ここを関東侵攻の拠点と定めている。その後は関東の諸将へ参陣を促すなどして侵攻の準備を調えつつ、厩橋城にて越年した。
明けて永禄4年(1561)2月、北条氏の本拠である相模国小田原に向けて進発。2月下旬には武蔵国松山に軍勢を進めており、27日には鎌倉の鶴岡八幡宮へ願文を捧げて勝利を祈願している。この頃には謙信に応じた北関東の諸将らが集結を始めており、その軍勢は上野国から斎藤憲広(岩櫃城主)・長尾憲景(白井城主)・長野業政(箕輪城主)・由良成繁(新田金山城主)・佐野直綱(桐生城主)、下野国から長尾当長(足利城主)・佐野昌綱(唐沢山城主)・小山秀綱(小山城主)・宇都宮広綱(宇都宮城主)、武蔵国から成田長泰(忍城主)・小田家時(騎西城主)・上杉憲盛(深谷城主)・太田資正(岩付城主)・三田綱定(勝沼城主)、下総国から高城胤吉(小金城主)、上総国から里見義弘(佐貫城主)・酒井胤俊(東金城主)、常陸国から小田氏治(小田城主)・真壁久幹(真壁城主)ら武将200余人、総勢で11万5千に及んだともいわれる。
対する北条勢は河越城・松山城に守備兵のみを残し、主力は小田原城に集めて防備を固めていた。氏康はこのとき古河公方・足利義氏を奉じており、「公方より認められた関東管領」との大義名分を掲げている。
3月、上杉勢は大軍をもって小田原城を攻囲。しかし堅城として名高い小田原城に籠もる北条勢も防戦に努めたので上杉勢も攻めあぐねた。史書や軍記によってその経過は異なるが、いずれにしても上杉勢は小田原城攻略の糸口を見出せなかったのである。

長陣は不利と見て小田原城の攻略を断念した謙信は、軍勢を収めて閏3月のはじめに鎌倉に移り、16日には鎌倉の鶴岡八幡宮において上杉憲政から上杉氏の名跡と関東管領職を継承し、憲政から一字を与えられて上杉政虎と改名した。
4月1日には鎌倉で能楽を催し、21日に鶴岡八幡宮若宮に参詣したのち、帰国への途についた。
またこの頃、謙信は氏康の掲げる大義名分に対抗し、先代の古河公方・足利晴氏が家督を継承させることを望んだ足利藤氏(義氏の庶兄)の擁立を簗田晴助に打診している。
帰国の途次、上杉勢は北条方の拠点となっていた武蔵国松山城を攻めた。城主の上田朝直が城兵3千ほどで守っていたが、謙信は撤退すると見せかけて城兵を安心させたのち、即座に軍勢を返して城を急襲して陥落させた。この松山城は上杉憲勝に預けられた。
6月頃には体調を崩していたが21日に厩橋城を発ち、28日には居城の越後国春日山城に帰っている。