上田朝直(うえだ・ともなお) 1494〜1582

はじめ扇谷上杉氏の重臣、のちに北条氏に仕えた武将。通称は又次郎。左近大夫・能登守。案独斎宗調と号す。武蔵国松山城主。
主家・扇谷上杉氏は天文15年(1546)の河越城の夜戦で滅亡したが、そののちに姻戚関係にある太田資正が武蔵国松山城を奪取すると松山に在城した。しかし資正の不在を衝いて北条氏康に内応し、北条勢による松山城攻略に貢献、その功で松山城主となった。
北条氏家臣団の構成にあっては「他国衆」として位置し、永禄2年(1559)の時点では相模国東郡粟船郷や武蔵国比企郡野本・福田で471貫余を領していたことが知られる。
天文19年(1550)12月晦日の浄蓮寺宛寄進状から天正3年(1575)12月11日の正法寺護摩堂宛制札まで7通の発給文書が残っているが、天正年間初期より子・上田長則も定書などを発給していることから、この頃に代替わりしたと見られる。
天正10年(1582)10月3日没。89歳。