長野業政(ながの・なりまさ) 1499〜1561

上野国の国人領主。長野憲業(信業)の二男。信濃守。一盛斎と号す。上野国箕輪城主。
関東管領・山内上杉氏に属し、その家宰格として上杉憲政を補佐した。
天文14年から15年(1545〜46)にかけての武蔵国河越城攻めに上杉憲政に従って出陣しているが、15年4月の河越城の夜戦において長子の吉業を失った。
同年、憲政が武田信玄領への侵攻を企てた際には、「北条氏のみを敵と定め、武田氏と事を構えるべきではない」旨を進言して憲政を諌めているが容れられず、出兵に踏み切った憲政は敗北を喫した(笛吹峠の合戦)。なお、これには業政は出陣していない。
天文21年(1552)1月、北条氏康の圧迫に持ち堪えられなくなった憲政が上野国から退去して越後国の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ったのちも、関東管領上杉氏の再興を果たすべく12人の娘を小幡・和田・金井氏ら上野国西部の国人領主に嫁がせるなどして糾合し、北条氏や武田氏に対抗しうる防衛網を築き上げた。
永禄3年(1560)に長尾景虎が関東に出陣したとき(越山:その1)、参陣して長尾勢を支援している。
永禄4年(1561)6月21日に没した。享年63。法名は実相院殿一清長純大居士。
智・仁・勇を兼ね備えた名将と称され、上野国西部への侵攻を企図した信玄も業政の存命中は箕輪城を攻略できなかった。