河越(かわごえ)城の夜戦

駿河・遠江国の守護を兼ねる今川氏と相模・伊豆国を領する北条氏は長らく友好的関係にあったが、天文6年(1537)に北条氏綱が今川領である駿河国河東地域を制圧したため、その関係は破綻するに至った(河東一乱)。
天文14年(1545)、今川義元は河東地域の奪還を企図して出兵し、8月には駿河国駿東郡長久保(長窪)城を包囲し、9月には義元と同盟関係にあった武田信玄も今川方として参戦している。さらにはこの義元の動きに呼応した関東管領・山内上杉憲政が時期を同じくして扇谷上杉朝定とともに出兵し、武蔵国河越城を攻めたのである。

河越城はかつて扇谷上杉氏の本拠のひとつであったが、天文6年(1537)7月に北条氏の手に落ちて(天文6年の河越城の戦い)以来、北条為昌、その没後は大道寺盛昌が城代として防備を固め、北条方の武蔵国経略における要地となっていた。
この河越と河東からの挟撃策に窮した北条氏当主・北条氏康は10月下旬、信玄の調停によって和議を受け入れることとし、まずは22日に今川氏との和睦が成立。11月6日には長久保城から城兵を退去させて明け渡し、河東地域を今川氏に割譲することで決着した。
しかし両上杉氏の連合軍は和議に応じないばかりか、古河公方・足利晴氏にも北条氏との断交と河越への出陣を要請した。晴氏の妻は氏康の妹であったが、晴氏はかねてより氏康に不信感を抱いていたため10月下旬にこの要請を容れ、上杉陣営に加わったのである。
晴氏の参戦により、河越城包囲網はさらに厳重なものとなった。河越城の東に足利晴氏、北には扇谷上杉氏重臣の太田資正、そして西と南に両上杉という布陣である。さらには小山・宇都宮・那須・佐野・佐竹・小田・結城ら関東諸氏の軍勢も晴氏の下知に従って参集しており、その総数は8万とも称す大軍に膨れ上がった。
一方、河越城に籠もる城兵は3千ばかりであったが、守将の北条綱成以下一丸となって頑強に抵抗したため、上杉陣営は長陣を布いて兵糧攻めにした。
風前の灯火となった河越城に援軍を送ろうにも、今川氏との和議が成ったばかりでは河東方面の防備を解くことはできず、安房国の里見氏を警戒するために三浦半島方面にも兵を割かねばならず、四面楚歌の状態は依然として続いていたのである。
この大軍を前にして河越城の綱成は寡兵よく耐えていたが、天文15年(1546)3月、ついに兵糧が尽きようとしていた。この情勢を見た氏康は、4月初旬に河東・三浦方面より兵士を抜き集め、それに小田原の兵力を加えた8千余の軍勢を率いて北上し、河越城の救援に向かった。

圧倒的な兵力差の前に正攻法では勝算なしと見た氏康は、まず相手を油断させるために虚偽の和議の申し入れを行った。下手に出た態度で上杉陣営の緊迫感の弛緩を誘うことに成功した氏康は4月20日、夜襲を敢行したのである。電撃的な奇襲で柏原に布陣していた山内上杉憲政の軍を叩き、続いて上戸にも攻撃を仕掛けて、この方面の上杉勢を潰走させることに成功した。
この戦いで上杉朝定は討死した。
こうした展開を見た河越城の綱成も勇躍、城門を開いて一挙に打って出て、下老袋に本営を張っていた足利晴氏軍を一気に強襲。このため、総数8万の軍勢は散り散りになって敗走した。この合戦で、上杉陣営は3千余人が討ち取られたという。

こうして、関東の支配をめぐる両上杉・古河公方といった旧勢力と、新興勢力の北条氏との戦いは北条氏に軍配が上がり、旧勢力が急速に衰退していくこととなったのである。
またこの合戦は「日本三大夜戦」の一つとして数えられるが、史料によっては合戦のあった年月日に相違があり、果たしてこの日にこうした夜戦があったのか疑問視する向きもある。
最近では、この前後に起こった幾つかの戦いがこの日の一日に集約されたのではないか、とする考え方が有力のようである。