河東一乱(かとういちらん)

天文5年(1536)の今川氏の内訌(花倉の乱)において、今川義元北条氏綱武田信虎の支援を得て勝利し、駿河・遠江の守護職を兼ねる今川氏当主の座に着いた。これに伴い、それまで抗争を繰り返してきた今川氏と武田氏の和睦が実現、さらには天文6年(1537)2月に信虎の娘が義元に嫁したことにより、今川氏と武田氏の関係はより緊密なものとなる。
しかし、これを非とする北条氏綱がそれまでの今川氏との同盟を破棄し、同年2月26日に至って今川領駿河国の河東地域(富士川以東の富士郡・駿東郡)に向けて出兵したのである
この河東の富士郡は氏綱の父・北条早雲が今川氏に属していた頃に領した地域であること、駿東郡には北条氏の親族である葛山氏広(氏綱の弟)が勢力を張っていたことなどから北条氏の影響が強い地域であった。一方の義元は家督を相続してまだ間もなく、家中において自身の権威を確立するために駿河国全域を完全に掌握する必要があり、河東から北条氏の影響を払拭するために北条氏と距離を置き、それが武田氏との関係強化につながっていったと目されている。
2月末より侵攻を開始した北条勢に対し、義元も信虎の支援を得て対抗したが北条勢の優勢は覆せず、同年6月頃までには河東一帯は北条氏の掌握するところとなった。

北条氏の始祖である早雲は今川氏の属将として活動を始め、駿河国富士郡下方に所領を得た。その後も今川氏属将という地位に在りつつ独自の機略で勢力を拡張させてきたという経緯があり、いわば、北条氏は未だ今川氏との上下関係から完全に脱しきっていなかったといえる。つまりこの抗争は、それまで名目的には今川氏の風下ともいうべき位置にあった北条氏が、今川氏の代替わりを機として、自立へと向けて動き出したことを意味する。

その後も抗争は断続的に起こっていたが、天文7年(1538)から翌年の間に北条氏と武田氏の間で和睦の動きが起こり、以後は武田氏が河東地域の抗争に介入した形跡がないことから、この頃に北条・武田氏の和睦が実現したと見られている。
転じてこの北条・武田氏の和睦は今川義元と武田信虎の関係に亀裂を生じさせることとなり、積極的に国外侵攻を目論んできた信虎への警戒心を抱かせ、それが天文10年(1541)6月の武田信虎追放事件において、義元が武田信玄を間接的に支援する動きにつながったと見る向きもある。
北条氏と今川氏の対立はなおも続いたが、天文14年(1545)の河越城の夜戦において、今川勢を撤兵させる条件として河東地域の返還が決まり、河東地域をめぐる抗争はここに決着したのである。