天文6年の河越(かわごえ)城の戦い

天文6年(1537)4月27日、武蔵国河越城にて扇谷上杉氏の当主・上杉朝興が病死した。その家督は13歳の嫡子・上杉朝定に継承されたが、朝興は死に臨んで、仏事を営むよりも北条氏綱を退治せよと遺言したという。
これを受けた朝定は同年7月、武蔵国府中に進んで深大寺(神太寺)要害を再整備し、氏綱に対抗する姿勢を見せた。これに対して氏綱は11日に松田・清水・朝倉・石巻ら侍大将以下、7千余騎の軍勢とともに武蔵国に向けて出陣して深大寺要害を攻略すると、その余勢を駆って河越城に向けて進撃したのである。
15日には河越城近くの三木原で合戦となった。扇谷上杉勢は朝定の叔父で後見役でもあった上杉朝成を大将、曽我丹波守を軍監とした2千騎ほどの軍勢が迎撃に向かったが、7百余人を討ち取られたばかりか、大将の朝成までもが捕えられるという惨敗を喫したのである。
もはやなす術を無くした朝定は河越城を支えることができず、城を棄てて家臣の難波田善銀の居城である武蔵国松山城に逃れた。善銀は河越城から敗走してきた残党を集めて18日に河越城の奪還を企図したが成らず、20日には逆に北条勢によって松山城を攻撃されている。

北条勢に制圧された河越城は、城代に氏綱の三男・北条為昌が据えられ、戦略上の要衝として防備が固められた。一方、本城としていた河越城を失った扇谷上杉氏の保有する拠点は武蔵国の松山城と岩付城、下総国葛西城のみとなり、その劣勢はさらに深刻なものとなったのである。