北条氏重臣。蔵人・駿河守。法名は宗心。鎌倉代官・武蔵国河越城代。
父は北条早雲(伊勢宗瑞)が在京していた頃より仕えていた大道寺太郎(法名を発専)とされる。
名の「昌」の字は早雲の前身と見られる伊勢盛時の偏諱で、早雲・氏綱・氏康の3代に亘って仕えた。
永正17年(1520)には鎌倉代官を務めており、また、北条氏は天文元年(1532)から13年(1544)にかけて鶴岡八幡宮の造営を行っているが、盛昌はその総奉行を勤めている。
天文11年(1542)に北条為昌が没すると、その遺領の一部である武蔵国河越城の城代となり、「河越領」と称される地域の統治を担った。
『寛永諸家系図伝』では生没年不詳、忌日が7月12日で享年62とされているが、永正17年2月27日から天文19年(1550)閏5月21日まで20通の盛昌が発給した文書が現存し、天文21年(1552)4月からは嫡子の周勝に家督としての活動が見えることから、天文19年から21年頃の間に没したと推察される。