北条綱成(ほうじょう・つなしげ) 1515〜1587

福島正成(福島九郎とする説もある)の子。幼名は勝千代。通称は孫九郎。左衛門大夫。
福島正成は今川氏親に属した武将で遠江国土方城を守っていたが、天文5年(1536)に今川氏で内紛が起きた際の紛争に敗れて甲斐国に遁走、武田信虎に殺されたという。
その後、北条氏のもとに身を寄せた綱成は累功を認められて北条氏綱の娘婿となり、北条の姓と「綱」の字を与えられた。
天文2年(1533)には相模国玉縄城に在城して城代を務めており、天文11年(1542)5月に玉縄城主・北条為昌が死没したのち、その後継者として玉縄領と相模国三浦郡を管掌し、同年生まれの義兄で北条氏3代当主・北条氏康を大いに援けた。
武勇の誉れ高く、天文15年(1546)の河越城の夜戦や永禄7年(1564)1月の国府台合戦:その2をはじめとする数々の戦を勝利に導き、敗れはしたが元亀2年(1571)1月の深沢城の戦いにおいて城将として防衛にあたるなど、北条軍の主力を担った。
元亀2年11月に嫡子の北条氏繁に家督を譲って上総入道と称すが、その後も軍役が課されていることから、老齢にあってもなお現役であったことが窺える。
天正15年(1587)5月6日に死去。享年73。法名は円竜院殿覚眩道感大禅定門。
五色備に編成された北条軍の中で黄備を担当し、その旗指物は黄色の練の四隅にそれぞれ八幡の二字を書いたもので、「地黄八幡」と称された。