今川氏の没落後、今川氏真は妻の実家である北条氏を頼り、ここに武田信玄と北条氏康・氏政父子の衝突が本格化することになった。
元亀元年(1570)4月、武田方の武将・駒井昌直の守る駿河国深沢城を氏康・氏政父子が3万8千の大軍によって攻め取り、6月には北条綱成を入れて守りを固めていた。その年の暮れ、今度は武田軍が深沢城を攻めることになり、翌元亀2年(1571)1月から戦いが繰り広げられた。
有名な『深沢城矢文』が武田方から城中へと射込まれたのは正月3日のことであった。城将の綱成・氏繁父子はこれを黙殺してよく守ったが、信玄は甲斐金山の金掘り人夫を呼び寄せると「もぐら攻め」などといわれる方法で坑道を掘るなどして激しく攻め立てたため、ついに16日、綱成・氏繁父子は開城してしまった。北条氏政は城の後詰のため、10日に小田原を出発していたが間に合わなかったのである。
その後、武田軍が深沢城に入城。が、今度は遅れて到着した北条方の援軍・北条氏政に攻められるのである。
それから2ヵ月後の3月27日、武田軍は城を出て、甲府へと引き上げた。