元亀2年(1571)1月、武田信玄が北条綱成・氏繁父子の守る駿河国深沢城を攻めた際、降伏開城を勧告する書状を矢文にして送り込んだ。
その矢文の内容を要約すると「関東の領主らが長尾景虎(上杉謙信)の旗下に従い、(永禄4年に)小田原城を攻められたときも、武田方の加勢で難を免れた。北条の安泰はすべて信玄の軍の犠牲によるものである。子々孫々甲州(武田氏)に対し疎意を企てないという起請文を数通受け取っている。しかるに今川氏真は骨肉の因縁を忘れ、甲陽の旧敵である長尾景虎と同心して武田の滅亡をはかったので、堪忍できず駿河へ出兵した。(中略)小田原へも申し入れをし、小田原からも使節を送って条件を出したので当方はこれを応諾し、誓紙をもって相談も成立したはずである。(中略)氏康ごときが妨げ得ることはない。戦いが長引いてはお互いに不便であるので、甲・相(武田と北条)がここで一挙に勝敗を決しようではないか。城中から小田原に対し後詰の催促をされたらよかろう。その飛脚は路次中異議なく、小田原まで送り届けよう」という旨の長文の書簡だった。