国府台(こうのだい)の合戦:その2

天文7年(1538)の国府台の合戦足利義明(小弓公方)・里見義堯北条氏綱の戦いであったが、それから26年後の今回は義堯の子・里見義弘と、氏綱の子・北条氏康の戦いであった。

関東地方の制圧を目指す氏康は山内・扇谷の両上杉の討伐に力を注いでいたが、天文15年(1546)の河越城夜戦で扇谷上杉氏を滅亡させ、天文21年(1552)には上野国平井城に関東管領・山内上杉憲政を攻めて没落させるとともに足利晴氏藤氏父子に圧迫を加え、実質的に古河公方の権力をも掌握することに成功した。
氏康に所領を逐われた上杉憲政は越後国の上杉謙信(当時の名乗りは長尾景虎)に支援を求め、これを容れた謙信は関東地方の反北条勢力と連携して「越山」と呼ばれる関東侵攻を繰り返すことになる。
安房国と上総国の一部を領していた里見義弘は、攻勢を強めてくる北条氏への対抗策として謙信と結んでおり、永禄6年(1563)12月に越山した謙信から出陣の要請を受け、上杉方勢力の武蔵国岩付城主・太田資正や太田一族の太田康資と連携するために永禄7年(1564)1月4日に下総国の市川に布陣した。
この義弘出陣の報を得た氏康は同日、家臣や従属勢力に迅速な出陣を命じた。氏康がこの日に発した出陣要請の書状では翌5日の戦闘を想定しており、兵糧の準備が間に合わないようであれば貸すので、とにかく達者な者は身分が低くても連れて5日の午前中に参陣することを命じている。こうも氏康が急いだのは、上野国に駐留していた上杉軍と下総国方面から迫る里見・太田の連合軍によって挟撃される危険を避けるため、先に短期決戦で里見らを叩く戦略によるものである。
この氏康の陣触れに参集した北条勢は氏康以下、子の北条氏政氏照氏邦兄弟、氏康義弟の北条綱成氏繁父子、重臣の松田憲秀・大道寺直家・遠山直景・富永政家ら2万余。対する里見・太田連合軍は、里見義弘・正木時茂・正木時忠らの6千余に加え、太田勢が2千余の合計8千余といわれる。

1月5日、北条勢は相模国小田原を進発。7日には利根川(現在の江戸川)右岸に着陣して部署を定めた。北条方の先陣は北条綱成が務めることとなっていたが、下総国葛西の領主であった富永政家と江戸城代を務めていた遠山直景は、「己の所領に向けて進軍してきた敵を他人に討たせるのは恥辱」として先陣を仕ることを望んで許され、「がらめきの瀬」と呼ばれる浅瀬を渡り、国府台に布陣する里見・太田連合軍に向けて攻め込んだ。
これを受けた連合軍の先手が崩れて敗走を始めたため、勢いに乗った富永・遠山隊は追撃するべく更に軍勢を押し進めた。ところがこの敗走は連合軍の策略であり、国府台の台地上で待ち構えていた正木時茂・太田康資隊が頃合を見て逆落としに斬り込んだため、先陣の富永・遠山隊は潰滅したばかりか両将が討ち取られるという惨敗を喫した。
この勢いを駆って正木・太田隊はさらに進撃したが、北条綱成隊に横槍を入れられて突き崩された。しかしこの綱成隊も里見勢の後続部隊に包囲されて苦戦、北条氏政隊の加勢を得てようやく危地を脱したのである。
この日は日没まで決着がつかずに両軍ともに兵を引いたが、戦況は数に劣る里見・太田方が優勢であり、この緒戦の勝利に気を良くした里見方は酒盃をあげていた。これを間者の注進によって知った氏康は、北条綱成と松田憲秀の献策を容れて今夜のうちに闇に紛れて軍勢を配置し、夜明けとともに連合軍を挟撃すること策したのである。その配置は、北条綱成隊を松戸方面から迂回させて国府台の東方に位置する真間の森に伏せ置き、氏康率いる本隊は市川を渡って国府台の下に陣することとなった。
そして翌8日の早暁、北条勢は前後からの一斉攻撃を開始した。この急襲を受けた連合軍は脆くも崩れ、里見勢は上総国へ、太田勢は岩付城を目指して落ちていった。このときの死傷者数は里見・太田方で5千3百余、北条方では3千7百余人ともいわれ、一方的な決着になりがちな奇襲戦といえども、かなりの激戦になったことが窺える。敗軍の将となった里見義弘・正木時茂・太田康資らは自ら太刀を取って血路を切り開いて逃れたが、奇襲を仕掛けた北条方の武将もまた同様に戦塵に塗れて戦ったのである。

この合戦の勝利により、氏康が危惧していた上杉・里見らによる包囲網形成を未然に防ぐことに成功したのである。さらにその半年後には岩付城が自落したことにより、武蔵国における北条氏の勢力基盤は磐石なものとなった。