松田憲秀(まつだ・のりひで) ?〜1590

北条氏重臣。松田盛秀の子。この盛秀は北条綱成の妹を妻としているが、憲秀がこの女性の子であるかは不明である。左馬助・尾張守。通称は尾張入道。
北条氏康氏政氏直の3代に亘って仕えた。
北条家中で松田氏の動向が確認できるのは天文8年(1539)、盛秀の代からで、一説には西国から盛秀とその兄弟の筑前守が相模国の松田左衛門尉を訪ねて下ってきて、北条氏に仕えたとされる。
松田氏は北条氏重臣の中でも家格が高く筆頭の地位に在り、小田原衆を統括し、その所領も家臣中で最高の禄高であった。永禄2年(1559)2月時点での所領高は約2千8百貫文で、北条一族を含めても北条幻庵の約5千4百貫文余に次ぐものであった。その所領の構成も、小田原城の後背に位置する苅野荘を一括で1千貫文以上与えられており、並みならぬ信任を得ていたことがうかがえる。また、相模国から武蔵国へと通じる要衝・関戸を治める代官職も務めている。
憲秀はこの松田氏の家督を弘治年間(1555〜1558)頃に盛秀から譲られたとみられ、永禄元年(1558)4月、古河公方・足利義氏の鶴岡八幡宮への参詣、それに続く氏康亭への御成りに随行しているが、これが憲秀の活動の初見である。
永禄7年(1564)1月の国府台の合戦:その2に従軍し、戦功を挙げた。
永禄12年(1569)、北条氏がそれまで同盟を結んでいた甲斐国の武田信玄と断交して抗争するようになると、相模国への防衛拠点となる駿河国深沢城に派遣されて北条綱成らとともに防衛にあたったが、元亀2年(1572)1月に武田勢の猛攻を受けて開城(深沢城の戦い)。その後は伊豆国への侵攻を扼す駿河国平山城を守衛したが、同年12月に北条氏が再び武田氏と提携するにともなって駿河国を武田氏の領国とすることが取り決められると、本国に戻ったようである。
天正18年(1590)、羽柴秀吉による小田原征伐に先立っては、籠城策を主君・氏直に献言して容れられる。しかし6月に至って羽柴方の堀秀政の誘引を受け、伊豆・相模の両国を与えるとの条件で内応しようとしたが、二男・直憲の密告により露見して氏直に捕えられ、北条氏が降伏したのちの同年7月5日、秀吉から切腹を命じられた。法名は竹庵道悟禅定門。