堀秀政(ほり・ひでまさ) 1553〜1590

美濃国厚見郡茜部荘の出身。堀秀重の嫡男。幼名は菊千代、通称は久太郎。左衛門督。
藤原北家利仁流の流れを汲む豪族・堀一族から身を起こし、はじめは美濃国の斎藤氏に属していたが、永禄8年(1565)に織田信長の近習となる。
天正3年(1575)の越前一向一揆鎮定や天正5年(1577)の雑賀征伐に功があり、天正9年(1581)の天正伊賀の乱には信楽口の大将として一手を任され、それらの功をもって9月に近江国長浜城主となった(年月に異説あり)。
また、奉行人として山城・近江国の蔵入地(信長直轄領)の管理にあたるほか、信長の発給書状に添状を添付するなど、武将としてだけでなく実務に通じた吏僚としても活躍した。
天正10年(1582)、信長の命で備中国高松城を攻囲していた羽柴秀吉の援軍として出陣しているときに本能寺の変が起こり、そのまま秀吉に従った。続く山崎の合戦にも従軍し、先鋒として武功を挙げ、ついで近江国坂本城に明智秀満を攻め滅ぼした。
のちの清洲会議で、信長嫡孫の三法師(のちの織田秀信)の蔵入地である近江国坂田郡2万5千石の代官職を任された。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦ののち、その功で近江国佐和山城主として9万石を領有した。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦でも秀吉麾下として参戦、冷静な采配で榊原康政・大須賀康高の軍勢を破る活躍を見せた。
天正13年(1585)の紀伊征伐にも従軍。この年の7月、従四位下侍従・左衛門佐に叙位・任官。それに伴って羽柴・豊臣の姓を授けられた。
またこの年、越前国の領主だった丹羽長秀が卒したのち遺領を嫡子・長重が継いだが、家中不和のために領地没収となったので、秀吉の命によりその後任として閏8月13日より越前国北ノ庄と加賀の江沼・能美2郡の8千7百石、合わせて18万石の領主となった。このとき、長重に属していた村上義明・溝口秀勝を与力として付されている。
秀吉の信任厚く、戦上手なだけでなく領内統治にも優れた手腕を発揮し、政務怠るところがなかったという。
天正15年(1587)の九州征伐にも出陣した。
天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐に従い、伊豆国山中城の戦いでは日金山の間道から進撃して北条勢を破るが、5月27日に相模国早川口の陣中で病没した。享年38。法号は東樹院高岳道誓。墓所は越前北ノ庄長慶寺、のちに越後春日山林泉寺に改葬。