溝口秀勝(みぞぐち・ひでかつ) 1548〜1610

溝口勝政の子。幼名は竹丸。通称は金右衛門。初名は定勝。伯耆守・従五位下。越後国新発田藩の初代藩主。
はじめ丹羽長秀に仕えていたが、戦功を認められて天正9年(1581)4月より織田信長の直臣となり、若狭国高浜城主として5千石を領有するに至った。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では羽柴秀吉方に属し、戦後に加賀国江沼郡に4万6千石を与えられ、大聖寺城主となる。
天正13年(1585)に長秀が没したのちは秀吉の直臣となり、堀秀政の与力を命じられた。
天正14年(1586)11月、従五位下・伯耆守に叙位・任官。このとき名を秀勝に改めた。
天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐にも従軍。
天正20年(=文禄元年:1592)の文禄の役に際しては肥前国名護屋に駐留、同城の普請と警護にあたった。
慶長3年(1598)堀氏の越後国移封に伴って秀勝も加増転封の沙汰を受け、越後国新発田城主として6万石を領有し、新発田城の普請・城下町の建設、検地、治水などに意を注ぎ、後世の幕藩体制における新発田藩の基礎を作った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では東軍に属し、堀氏に従って上杉景勝に加担して蜂起した一揆を鎮圧する功績を挙げ、戦後に所領を安堵された。
天正15年(1610)9月28日、新発田で没した。63歳。法名は宝光院殿前伯州太守性翁浄見大居士。