戦国時代の九州も他の地域と同様に群雄が割拠し、小勢力が大勢力に討ち果たされ、あるいはその傘下に組み込まれ、しだいに統合されていくという動きを見せていた。そして天正年間の初期には、豊後国を本拠とする大友氏、肥前国の龍造寺氏、薩摩国の島津氏による鼎立状態となっていたのである。
しかし天正6年(1578)の耳川の合戦で大友氏が、天正12年(1584)の沖田畷の合戦で龍造寺氏が島津氏に大敗を喫し、その版図は大きく塗り替えられることになる。島津勢力は蚕食による成長を続け、九州全土をその傘下に収めんとするばかりの勢いを誇っていたのである。
天正13年(1585)7月に関白に就任した羽柴秀吉は同年10月、天皇の勅命として、抗争を続けていた大友義統と島津義久に対して和睦勧告の文書を発給した。大友氏はこの勧告に従う旨を表明したが、島津氏はこれを無視してさらに進撃を続けたのである。
そして島津氏の攻勢に窮した大友宗麟が天正14年(1586)4月、大坂城で秀吉に謁見して援助を求めたため、秀吉はこれに応じるという名分で九州への救援軍派遣を決めたのである。
秀吉は天正14年9月、九州征伐軍の先遣隊として中国地方の毛利氏に加えて黒田孝高を軍監として豊前国から派遣し、四国勢として長宗我部氏・十河氏らに仙石秀久をつけて豊後水道を渡らせて送り込んだ。一方の島津義久は弟の義弘を肥後方面から、家久を日向方面から侵攻させ、武力抗戦の構えを見せたのである。
勇猛で鳴らした島津勢は大友方の海部郡栂牟礼城、大分郡鶴賀城などを攻撃し、さらには鶴賀城の救援に赴いた四国勢を戸次川の合戦にて破るなど、気炎を吐き続けていた。
しかし年が明けて天正15年(1587)、秀吉や羽柴秀長らに率いられた九州征伐軍の本隊が動き始めると戦局は一転することになる。総勢20万を下らないともいわれる征伐軍は3月末頃より進撃を開始、徐々に島津氏の戦線を押し戻していったのである。
羽柴勢は数に勝ることも然りながら、軍備面においても島津勢を凌駕していたという。高城や岩石城の戦いに見られるように、抜刀突撃を恐れられた島津勢も数千挺を擁するという征伐軍の鉄砲隊の前につぎつぎと敗退していったのである。
4月になると秋月種実・城親賢ら島津氏に服属していた大身の武将も征伐軍に降伏。4月末には島津氏の有力庶家で出水城主の島津忠辰までもが降伏し、征伐軍の先導役を務めるありさまだったのである。
このような情勢から勝ち目なしと判断した島津義久は、5月8日に剃髪して秀吉が本陣としていた泰平寺に出頭し、秀吉に降伏を申し出た。これを潔しとせず、その後なおも抵抗を続ける者もあったが、義久の説得によって降ったという。
秀吉は島津氏に薩摩国・大隅国および日向国の一部を安堵し、肥後国の統治者として佐々成政を起用するという処置を行った。
この激しい抵抗をした島津氏に対する処置を緩いとする見方もあるが、このとき既に目論んでいたとされている中国大陸進出(のちに実行されることになる文禄・慶長の役)の要を担わせるためにあえて残した、ともいわれている。