島津忠辰(しまづ・ただとき) 1565〜1593

島津氏の一門衆。島津薩州家・島津義虎の子。母は島津義久の長女。通称は又太郎。別称を忠永。薩摩守。薩摩国出水城主。
薩摩国出水など3万1千9百余石の所領を統治した。
天正15年(1587)の九州征伐においては、4月下旬頃に実子を人質に出して豊臣勢に降伏し、先導役を務めた。これはいち早く島津宗家から離脱して豊臣政権に降り、宗家からの独立を企図したものとみられる。
九州征伐後には豊臣政権から直接に所領を与えられ、島津家中からは「御朱印衆」と称されているが、島津氏の与力(家臣ではなく同格であるが、その指揮下に入ること)という位置づけである。しかし、豊臣政権の直臣という地位を盾に取って島津宗家に従うことを嫌い、宗家から課せられた公事にも応じようとしなかった。
文禄の役においても、島津義弘の与力として出陣を命じられたが同陣せず、前線拠点の肥前国名護屋城に参陣したのちも病と称して名護屋に留まり続け、朝鮮国に渡海して釜山に到達したのちも島津義弘のもとに参陣しなかった。
これを知って大いに怒った羽柴秀吉によって文禄2年(1593)5月1日付で所領を没収され、身柄を小西行長に預けられた。これによって島津薩州家は断絶し、忠辰は同年8月27日に朝鮮国の加徳島で失意のうちに病死した。