島津義久(しまづ・よしひさ) 1533〜1611

薩摩守護・島津貴久の嫡男。島津義弘歳久家久の兄。幼名は虎寿丸。通称は又三郎・三郎左衛門尉。修理大夫・従四位下。
初名は忠良。その後、将軍・足利義輝の一字を受けて義辰(よしとき)と名乗ったが、のちに義久と改めた。
永禄9年(1566)2月、父・貴久より家督を譲られて第16代の島津氏当主となった。
永禄12年(1569)、薩摩国大口の菱刈氏を降して薩摩一国を掌握する。
その後も更なる勢力拡張を図って大隅・日向国へも侵攻し、天正2年(1574)に伊地知・肝付氏を降して大隅国を分国に併合、日向国方面における戦線では元亀3年(1572)に伊東氏を木崎原の合戦で破り、天正5年(1577)に日向国から逐い、九州の南部を勢力圏とした。
のち、大友宗麟龍造寺隆信と九州の覇を競って鼎立する。
天正6年(1578)11月、日向国耳川の合戦において大友軍を大破してその所領を蚕食、9年(1581)には肥後国の相良氏を膝下に加え、12年(1584)3月には肥前国島原の沖田畷の合戦で隆信を屠った。更には天正14年(1586)の戸次川の合戦で大友氏に壊滅的な打撃を与えて豊前国に逐い、ほぼ九州の全土を掌中のものとした。
だが天正15年(1587)に羽柴秀吉による九州征伐を受け、圧倒的兵力の前に5月に降伏、娘の亀寿を人質として差し出し、自身は剃髪して入道、龍伯と号す。秀吉はこれを許し、薩摩国を義久に、大隈国を弟・義弘に、および日向の一部を安堵された。
九州征伐の敗戦によって島津氏は豊臣政権への臣従を余儀なくされるが、文禄の役に参陣するなどして忠勤に励む義弘と対照的に義久は非協力的であり、ために領国統治に齟齬が生じた。文禄3年(1594)から行われた太閤検地の結果、文禄4年(1595)に島津領国が義弘の名義で与えられると大隈国富隈城に隠退したが、隠然たる実権はなおも握り続けていた。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役においては、京都に参勤していた義弘が西軍陣営に与して敗北したために徳川家康から謝罪のために上洛を再三に亘って要請されたが、病気であるとしてこれに応じず、代わって後継・忠恒が上洛したことで安堵を得た。
慶長10年(1605)、国分城に移住。
慶長16年(1611)1月21日、国分で死去。79歳。法名は貫明存忠庵主妙国寺殿。
古今伝授を受け、学芸・教養も高かった。