永吉島津氏の祖。島津貴久の四男。島津義久・義弘・歳久の異母弟。通称は又七郎。中務大輔。
元亀元年(1570)、隈城を与えられて薩摩国串木野の領主、天正6年(1578)6月には日向国佐土原城主となる。
島津氏の日向国侵攻においては兄・義久を援けて軍事の要として重要な役割を果たし、天正6年の日向国高城の攻防戦、続く耳川の合戦において大友勢に大勝した。
天正8年(1580)の肥後国水俣への侵攻においては大将を務め、島津氏の勢力拡張に大きく貢献した。
天正12年(1584)の島原出兵においては総大将として出陣し、陽動作戦をもって龍造寺隆信を討ち取るという大殊勲を挙げた(沖田畷の合戦)。
天正15年(1587)の羽柴秀吉による九州征伐に際しては日向口の大将として防備にあたり、戸次川の合戦において長宗我部信親・十河存保らを討ち取るなど大いに戦ったが、羽柴秀長が伊東祐兵と日向国に入ると人質を出して降った。
しかし同年6月5日に急死した。佐土原で秀長に毒殺されたといわれるが、「秀長に従い京に上って奉公したい」として降伏した家久の態度を不興とした島津氏側が毒殺したとする見解もあり、さらには5月頃には病中であったことを記す書状も存在するため、その死の真相は不詳であると言わざるを得ない。41歳。法号は長策梅天大禅定門。
家久は勇猛で知られる島津家中の中にあっても武略に秀でた武将であったが、古今伝授を受けるなど、文学への造詣も深かったことが知られている。
また天正3年(1575)に伊勢参宮を目的とした上洛をし、連歌師・里村紹巴らと交流しているが、このときのことを記した『中書家久公御上京日記』は、当時の薩摩国と京都との交通路、武士の社寺参詣の様相を知りえる貴重な資料となっている。