長宗我部信親(ちょうそがべ・のぶちか) 1565〜1586

長宗我部元親の長男。幼名は千雄丸。通称は弥三郎。
父・元親と同様、背が高く色白であったという。
天正3年(1575)冬、阿波国への侵攻を図る元親が出兵の了解を得る外交上、明智光秀を介して織田信長に弥三郎の烏帽子親となることを依頼、天正8年(1580)に信長から諱を受けて信親と称した。
羽柴秀吉による四国征伐に屈したのち、天正14年(1586)に九州征伐の先遣隊として出陣。12月12日、元親・仙石秀久らと豊後国鶴ヶ城の救援に向かい、戸次川畔で島津家久と合戦(戸次川の合戦)。だが渡河戦に大敗を喫して陣を崩され、乱戦の中、信長から贈られた左文字の大刀をふりかざして敵勢に斬り入り、討死を遂げた。22歳だった。法名は天甫寺常舜禅定門。