仙石秀久(せんごく・ひでひさ) 1552〜1614

羽柴家臣。仙石久盛の子。美濃国に生まれる。通称は権兵衛。秀康・盛長とも名乗った。越前守・従五位下。
はじめ織田信長に仕えた。天正2年(1574)に近江国野州郡に1千石を与えられ、天正6年(1578)に4千石を加増。天正8年(1580、天正11年とも)には淡路国洲本城主として5万石を領した。
信長の死後は羽柴秀吉に従い、四国征伐が成ると天正14年(1586)に讃岐一国を与えられ、高松城主となる。
天正15年(1587)の九州征伐に際し、先遣隊を命じられて長宗我部元親らと四国勢の軍監として出陣。豊後国戸次川で島津軍と戦うが、己の主張した強行渡河策に失敗、四国勢総崩れの要因となった(戸次川の合戦)。この失策によって所領を没収されて高野山に入った。
天正18年(1590)の小田原征伐では徳川家康の陣場を借りて従軍、その功によって信濃国佐久郡小諸5万石を得て、小諸城主となった。
文禄の役に際しては、兵站拠点となる肥前国名護屋城の築城工事を分担した。
天正20年(=文禄元年:1592)11月、従五位下・越前守に叙位・任官。文禄3年(1594)には5万7千石に加増された。
この年に伏見城の工事にも携わっているが、このときに大盗賊・石川五右衛門を捕えたという伝説がある。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では徳川秀忠軍に属し、真田昌幸の籠もる上田城攻め(上田城の戦い:その2)に加わった。
慶長19年(1614)5月6日没。63歳。1551年(天文20年)生まれの64歳との説もある。法号は宝誉道樹円覚院。