上田(うえだ)城の戦い:その2

慶長5年(1600)4月、豊臣政権の五大老筆頭・徳川家康は、陸奥国会津の上杉景勝を「謀叛の疑いあり」との名目で征伐を企図した(会津上杉征伐)。
家康の号令によってこの会津征伐への従軍を命じられた諸大名は軍勢を率いて会津へ向けて発向する。それまで大坂城に在った家康も出陣準備のため帰国していたが、7月22日、石田三成の主導によって反家康勢力が畿内にて決起したとの報せが届く。
関ヶ原の役の勃発であった。

三成はこの決起に先立って「家康こそが豊臣政権を簒奪する者」として家康の非を鳴らす檄文を諸大名に送り、反家康勢力の糾合を図っていた。
信濃国上田城を本拠とする真田昌幸信幸幸村父子も家康の嫡子・徳川秀忠に従って会津征伐に向かう途次にあったが、7月21日に下野国犬伏の陣中で長束正家増田長盛前田玄以連名の密書が届けられていた。
昌幸父子はこの両勢力のどちらにつくかを相談した結果、昌幸と幸村は三成(西軍)に応じ、信幸のみはそのまま留まって家康(東軍)に与する、ということに決まったのである。
この父子3人が両勢力に分かれることにした理由は、どちらの勢力が勝利しても真田家が存続できるように図ったためとも、幸村の妻が西軍に与した大谷吉継の娘、信幸の妻が徳川氏譜代重臣の本多忠勝の娘で、双方に濃い縁故を持つためであったともいわれる。
いずれにしても去就を決めた昌幸は、即座に西軍に応じる旨の使者を出発させるとともに、自身らは居城の上田城へ向けて撤退を開始した。その途中にある属城の上野国沼田城(城主は信幸)に立ち寄って休もうとしたところ、留守を守っていた信幸の妻・小松(本多忠勝の娘)に拒否されたため、城へ入ることなく引き取って上田城に帰還した。実は昌幸が沼田に立ち寄ったのは休息するためではなく、沼田城に入って乗っ取ろうと企んだが、それを小松に看破されたために諦めたとする逸話もある。
一方の家康は、三成らが畿内で挙兵したことを知りながらも会津征伐の軍勢を進めていたが、7月25日に下野国小山の陣所にて従軍諸将を集めて軍議を開き、三成らが家康を討つために挙兵したこと、従軍諸将の妻子らが大坂で人質同然に軟禁されていることなどを知らせたうえで、どちらの陣営に与するかを問うた(小山評定)。その結果、ほとんどの武将は家康に従い、軍勢を転じて三成を討滅することになった。もちろんこの軍議に昌幸・幸村父子の姿はない。
この評定で方針が決定されると、結城秀康伊達政宗最上義光らが上杉氏の追撃を抑え、家康は東海道から、秀忠は中山道を経て美濃国で合流し、三成との決戦に臨むという布陣が決定された。
徳川方に留まることを決めた信幸は、父と弟は石田方に与したが自身は異心なく徳川方に残る旨を小山評定の以前に告げており、その忠節を認められて秀忠の軍勢に配属されることとなった。

8月24日に下野国宇都宮を発向した秀忠軍は9月2日に信濃国佐久郡小諸城に入り、上田城に拠る昌幸・幸村に降伏を勧告した。中山道から西進するなら小諸を経由する必要はないが、徳川軍は天正13年(1585)閏8月の上田城の戦い(神川の合戦)で昌幸らに大敗を喫しており、その恥辱を雪ぐためにも真田氏を降しておきたかったのであろう。その軍勢は大将の秀忠以下、榊原康政本多正信大久保忠隣・本多忠政ら3万8千ほどの大軍であった。
秀忠軍は本多忠政・真田信幸を使者に送って上田城に降伏を勧告したところ、意外にも勧告に応じる旨の返事が返ってきた。秀忠はこれに感触を得て翌日に使者を送って降伏条件などを煮詰めさせたが、結局は講和は不調に終わった。これは昌幸の謀略で、降伏勧告に応じるふりをして時間を稼ぎ、その間に籠城の準備を進めていたのであった。
これを知って怒った秀忠は上田城を力攻めにすることを決し、5日より攻撃が開始されたのである。
秀忠軍はその日のうちに空城同然となっていた支城・戸石城を収容し、信幸を籠めおいた。秀忠は6日には上田城外の染谷台に陣を移して城を包囲し、城外の稲を刈り取らせたるために兵を出したが、城からもこれを妨害しようとして兵を繰り出したため、小競り合いとなった。しかしこの稲刈り隊が城兵を追っているうちに城壁近くにまで誘導され、城内からの鉄砲攻撃や、城から押し出した軍勢によってさんざんに打ち破られ、多大な損害を受けたのである。
こうした昌幸の謀略や戦術に翻弄された秀忠軍は、戦果を挙げることもできないままに数日を空費することろとなり、7日には小諸へ退き、8日に森忠政仙石秀久・石川康長ら信濃国に所領を持つ武将を抑えに残して美濃国へと向かったのである。

こののちの9月15日に、美濃国関ヶ原において関ヶ原の合戦と呼ばれる主力戦が行われるが、秀忠軍はこの合戦に間に合わなかった。その頃の秀忠軍は信濃国の木曾にあったという。
昌幸・幸村父子は徳川秀忠軍を上田城に釘付けにして主力決戦の兵力を削ぐことに成功したわけであるが、それにも関わらず関ヶ原の合戦において東軍が勝利したため、堅守を誇った昌幸・幸村父子も降伏せざるを得なくなった。
戦後の論功行賞において昌幸・幸村は死罪になるところを、信幸の忠節と必死の陳謝によって罪を減じられ、高野山へ配流されることとなった。