結城秀康(ゆうき・ひでやす) 1574〜1607

徳川家康の二男。天正2年(1574)2月8日、遠江国敷置郡産見(宇布見・宇富見)村の中村源左衛門の家に生まれる。母は家康正室築山殿の侍女・お万。二代将軍・秀忠の異母兄。幼名は於義丸(おぎまる)、於義伊(おぎい)。正三位・権中納言。剛勇をもって知られた。
家康の「隠し子」という故により、本多重次に養育された。家康は彼の出生に対し疑惑を抱いていたらしいが、重次や家康の嫡子・信康の奔走により、3歳でようやく父子の対面となった。
しかし家康からの情愛は薄かったと見られ、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の講和の際に羽柴秀吉のもとに送られた。実質的には家康から秀吉への人質であったが、秀吉は養子として養育した。
14歳で元服し、河内国に2万石の所領を与えられた。名乗りである「秀康」とは、秀吉と家康の諱から一字ずつを取ったものである。
初陣は九州征伐で、豊前国岩石城攻めの先鋒となって功を立てたとされる。
天正18年(1590)、17歳のときに下総国の結城晴朝の養子となり、同家を相続して10万石を領有した。
文禄の役においては肥前国名護屋に駐屯。文禄3年(1594)には伏見城の築城工事を分担している。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役に際しては家康に従って会津上杉征伐に従軍したが、石田三成挙兵の報を受けて東軍勢が西へと引き返したあと、下野国宇都宮に布陣して会津の上杉景勝の西上を牽制した。役後、その功で越前一国68万石ならびに若狭国・信濃国のうちの所領を合わせて都合75万石を与えられ、越前国北ノ庄に移った。このとき松平の姓に復した。
領国経営においては有能な人材の登用や産業の奨励など、充実した統治政策を布く反面で、豪放にして武を好み、若い頃から粗暴な振る舞いが多かったという。長じてもそれは変わることなく、家康や将軍家に対する反感は募り、間もなく強度の梅毒または痘瘡に侵され、不平と焦燥のうちに慶長12年(1607)閏4月8日に34歳で没した。法号は浄光院森厳道慰。