岩石(がんじゃく)城の戦い

天正14年(1586)4月、羽柴秀吉島津義久勢力の圧迫に耐え切れなくなった大友宗麟の救援要請に応えるというかたちで、かねてより目論んでいた九州への派兵を決定し、その先遣隊として同年9月には中国地方の毛利氏や四国の長宗我部氏・十河氏らを派遣し、その後にも畿内・北陸・東海などからの軍勢を順次発向させた(九州征伐)。
秀吉自身は天正15年(1587)3月1日に至って大坂城を発ち、3月29日に豊前国馬ヶ岳城に入ってここを本営とし、4月1日には島津氏に服属していた秋月種実の属城である豊前国岩石城への攻撃に取りかかった。

岩石城は標高約450メートル、その名が示すように岩石の多い岩石山に築かれた城で、この険阻な要害に守られた堅城であった。この城に秋月勢3千の精兵が籠められ、守将は熊谷久重とも、隈江越中・芥田六兵衛であったともいわれる。
一方の羽柴勢においても、九州に入って初めての城攻めということもあって諸将が先陣を願い出るほどであったというが、秀吉は蒲生氏郷前田利長に岩石城の攻略を命じた。その勢5千ほどであった。
一般的に、城攻めにおいて寄せ手は守兵の10倍ほどの人数を要するといわれ、これに従えば羽柴勢はかなりの寡兵で立ち向かったことになるが、羽柴勢には寡兵を補って余りある装備の差があった。羽柴勢は圧倒的多数の鉄砲を駆使して切れ間なく掃射を浴びせ、蒲生隊が城の正面、前田隊は尾筋から攻めて一気に畳みかけて火を放ち、その日のうちに岩石城を陥落させたのである。『豊前軍略記』では、討ち取った4百余の首級が秀吉に献じられたと記している。

秋月種実はこの戦況を岩石城の西方3里に位置する益富城(別称を大隈城)で見ていたが、堅城であるはずの岩石城が僅か1日で陥落したことを目の当たりにすると、急いで本拠の筑前国古処山城へと撤退した。
翌2日に秀吉が軍勢を進めて古処山城包囲の態勢を取ると種実は抗戦を諦め、4日に使者を送って降伏を申し入れ、剃髪して出頭して許された。その対面の場所は広い畑の中で、のちにそこを『降参畑』と称するようになったという。
一命を助けられた種実は16歳になる娘を人質として差し出すとともに、天下の名器として名高い「楢柴の茶入れ」を献じた。