前田利長(まえだ・としなが) 1562〜1614

前田利家の長男。永禄5年(1562)1月12日、尾張国荒子に生まれる。幼名は犬千代。通称は孫四郎。初名を利勝。従四位下・肥前守・侍従。
天正9年(1581)に父・利家の能登国七尾城への転封にともない、利家の旧領である越前国府中3万3千余石を襲封。またこの年の12月、織田信長の四女・永姫と結婚した。
天正11年(1583)には父と共に柴田勝家に属して賤ヶ岳の合戦に出陣したが羽柴秀吉に降り、合戦後に加賀国松任で4万石を与えられた。翌12年(1584)には末森城の戦いに従軍。天正13年(1585)の越中征伐後に越中国の砺波・射水・婦負の3郡に転封、守山城主となる。
同年11月に従五位下・肥前守に叙位・任官。14年(1586)には従四位下・侍従となり、豊臣姓を名乗ることを許された。
天正15年(1587)の九州征伐では豊前国岩石城攻めに功があった。
天正18年(1590)には利家と共に小田原征伐に参陣し、武蔵国八王子城攻めなどで功を挙げた。
その後、文禄2年(1593)閏9月に左近衛権少将、4年(1595)9月に権中将、慶長2年(1597)9月には参議と、累進を重ねた。またこの年の10月、居城を越中国富山城とした。
この間、父・利家は文禄の役のために肥前国名護屋城に駐留していたが利長は留守を守って所領に在り、利家の居城・尾山城(金沢城)を普請している。
利家死後の慶長4年(1599)4月には五大老の地位と父の遺領も併有した。しかしこの年、自領の加賀に在国しているときに謀叛の兆しあり、との風聞が流れ、釈明のために母・芳春院を江戸(徳川家)へ人質として送り、難を逃れた。
翌慶長5年(1600)の関ヶ原の役には東軍の徳川家康方に属し、大聖寺城を抜いて小松の兵と戦い(浅井畷の合戦)、戦後には西軍に属した弟・前田利政の所領なども与えられ、加賀・越中・能登120万石を領治。
慶長10年(1605)6月に庶弟・前田利常(利光)に家督を譲って隠居し、越中国新川郡の22万石を隠居料として領し、富山城に移った。慶長14年(1609)3月に焼失して一時は魚津城に移り、9月に射水郡に高岡城を築いて移った。
隠居後は利常を後見していたが慶長15年(1610)に腫物を患い、家政から遠ざかる。この腫物は、一時は小康を得たようであるが翌年に再発したとあり、同年6月には家康の側近である本多正信の二男・本多政重を前田本家に召抱えていることから、余命を察知して徳川政権への接近を図ったと見られる。
慶長19年(1614)5月20日、53歳で同城で卒した。
治政においては新田開発や農政に力を入れ、租税収入による財政基盤の整備と強化に努めた。また、利長はキリスト教の理解者で、父・利家の遺志を継いで高山重友内藤如安らキリシタン武将の保護にも努めた。