本多正信(ほんだ・まさのぶ) 1538〜1616

徳川家臣。本多俊正の子。通称は弥八郎。初名は正保。正行とも称す。佐渡守・従五位下。
出身は下級武士で鷹匠あがりと言われている。永禄6年(1563)の三河一向一揆(上和田の合戦)には一揆方の参謀役として加担、これが鎮圧されると追放され、京都や北陸地方を流浪したというが、のちに大久保忠世の取り成しで帰参した。
戦場での武功は無に等しいが、徳川家康の側近中の側近して名を馳せた。内政・外交・軍事戦略とすべての面において辣腕を揮い、謀臣として最高機密の相談もあずかり、家康からは朋友のごとくあつかわれたという。
「百姓は財の余らぬように、不足なきよう治めること道なり」という言葉で有名。
天正18年(1590)、徳川氏の関東入国時に相模国玉縄(甘縄)において1万石を与えられる。のちに加増され、2万2千石を領有した。妬みを受けやすい自分の存在を心得ていて、それ以上の加増を望まなかったという。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役には徳川秀忠に付されて信濃国上田城を攻撃した(上田城の戦い:その2)。
徳川幕府成立後は秀忠付の老職第一人者となり、ここでも謀臣として徳川家に尽くした。
大坂の陣においては、冬の陣の講和条件として大坂城の外堀を埋めるという条目があったが、その工事奉行を担当した本多正純(正信の子)は外堀のみならず二の丸を破却、その内堀まで埋め立て始めてしまい、豊臣方の抗議の使者にも父子揃ってのらりくらりとした返答しか与えずに工事を続行させ、内堀を埋め終わった頃を見計らって赴き、「かかる奇怪なる事はなし」と、正純に憤慨してみせるという老獪さが逸話として残る。結果、難攻不落を謳われた大坂城を裸城同然にすることに成功したのである。
元和2年(1616)6月7日、79歳で没した。法号は善徳納誨院。