本多正純(ほんだ・まさずみ) 1565〜1637

江戸幕府初期の重臣。徳川家康の側近・本多正信の子。幼名は千穂。通称は弥八郎。上野介・従五位下。
父・正信と同様に家康の信任厚く、慶長10年(1605)に家康が将軍職を子・秀忠に譲り、自身は駿府に在って大御所政治を展開したときには家康側近の筆頭として権勢を揮っている。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役ののちは西軍の首謀者である石田三成を預けられた。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣ののちには、講和条件の履行と称して大坂城の惣構えを破却し、難攻不落を誇った大坂城の防衛力を削ぐことに成功した。翌慶長20年(=元和元年:1615)の夏の陣にも従軍している。
家康の没後は秀忠に仕え、元和5年(1619)には下野国や近江国に加増を受けて15万5千石、下野国宇都宮城主に栄進。しかし元和8年(1622)10月、改易となった最上義俊の城を受け取るために出羽国山形城へ赴いた際、幕府より「新知として出羽国由利で5万5千石を与える」旨の沙汰があり、事実上失脚した(宇都宮吊天井事件)。
正純はこれを受けなかったため、寛永元年(1624)4月には佐竹義宣に召し預けられ、配流地の出羽国横手で1千石の地を与えられた。
寛永14年(1637)3月10日、横手で死去。73歳。