大坂(おおさか)夏の陣

徳川家康が大坂城に拠る豊臣秀頼の征討を企てたことによって勃発した大坂冬の陣は、慶長19年(1614)12月19日に和議が成立したことで終息し、22日までには和議締結の誓書の交換や人質の提出が滞りなく行われた。その講和条件の一つに「大坂城は本丸のみを残し、二の丸・三の丸は破却する」というものがあり、徳川方の兵は誓書の交換を行った翌日の23日より昼夜兼行で『惣堀』あるいは『惣構え』と呼ばれる広大な堀の埋め立て工事に取り掛かったのである。
家康は25日に大坂を去って京都に移っているが、出立に際して本多正純に「3歳の子でも上り下りができるほどに」と命じていったともいわれる。そしてこの日より二の丸・三の丸の破却も開始された。
これを知った大坂方(豊臣方)の織田長益(有楽)大野治長は、慌てて抗議を申し入れた。それは和睦締結の際に内々の約束として、惣堀の破却・埋め立ては徳川方で行い、二の丸・三の丸は大坂方で行う、ということが取り決められていたことによるものであった。大坂方には、破却作業は年月をかけて進めているうちに(高齢の)家康は死ぬだろう、との目論みがあったようであるが、本多正純は仮病を使って大坂方の使者に面会せずに「二の丸・三の丸の破却は城方で行うということであるが、手間取っているようなので手伝った。遠国の諸将も長期の在陣に迷惑しているので一刻も早く終了させて帰国させたいと考えて助力している」との口上を伝えさせたともいい、大坂方の抗議を無視する姿勢に出たのである。
これは、破却工事の分担までは講和条約に明文化されておらず、口約束であったことを双方が都合のいいように履行しようとしたためで、結局は徳川方が大坂方の抗議をのらりくらりとかわしながら破却工事を続行した。そして翌慶長20年(=元和元年:1615)1月24日までには完了し、建造物の残骸や土居、石垣までもが堀に投げ込まれて埋められ、本丸のみを残して懐平されてしまった。
本丸だけの裸城になってしまっては、いかに堅固を謳われた大坂城といえども防御力は無に等しい。大坂方が失ったものは、あまりにも大きすぎたのである。

3月になると京都所司代・板倉勝重からの使者が、駿府に帰っていた家康のもとへ頻繁に来着するようになり、大坂方の動静を逐一報告している。その内容は、大坂方が城の外郭に塀や柵を設け、埋められた堀を掘り返すなどして防備を強化するとともに、新たに浪人を集め、その浪人らが毎晩のように京都に押しかけて乱暴を働いている、とするものである。この報告すべてを鵜呑みにすることはできないが、大坂方が戦備を整えつつあることは明らかであった。さらには大坂方が京都に放火するという噂が流れ、このために市中が大騒ぎになったという情報がもたらされた。
家康はこれを重く捉え、大野治長より派遣された使者に対して詰問したばかりか、秀頼が大坂城を退去して大和国または伊勢国に移るか、新規に召抱えた浪人を追放に処すか、とする要求を押し付けたのである。
これに困惑した大坂方は謝意を表して要求の緩和を申し入れた。しかし家康は容れず、交渉は妥結しなかった。
事ここに至っては徳川方と大坂方の再戦は動かし難いものとなっており、事態は家康の望みどおりに運ばれたのである。

4月4日、家康は九男・徳川義直の婚儀に列席するため、駿府を発って名古屋に向かった。この頃は未だ大坂方との折衝が続けられており、家康としてもあからさまに軍勢を率いての出立は憚られたのである。しかし真の目的が大坂攻めにあったことは疑いない。途次の6日には伊勢・美濃・尾張・三河等の諸大名へ伏見・鳥羽方面に集結することを命じているし、翌7日には西国の諸大名にも出陣の準備を下知しているのである。
家康は10日に名古屋に入ったが、この日には本隊を率いる徳川秀忠も江戸を出発して西上を開始している。
婚儀に列席した家康はその足で15日に名古屋を発ち、18日に山城国の二条城に入った。秀忠の伏見到着が21日、この頃には軍令を受けた諸国の軍勢も続々と畿内に参集しつつあった。これら徳川方の兵力は15万を超えるものだったという。
そして24日、家康は大坂方の常光院と二位局を呼び寄せ、書付を大坂城に持ち帰らせた。この書付の内容は不詳であるが、おそらくは先に大坂方に突きつけていた要求の返答を今一度求めたものか、あるいは宣戦布告にも等しい最後通牒に類するものであったと推察される。
対する豊臣方兵力は5万5千人。

この2日後の4月26日より局地戦が開始されている。まず大坂方の大野治房が2千の兵を率いて大和国に出撃し、筒井正次の大和郡山城を攻略した。郡山城を占拠した治房は、その勢いを駆って奈良にまで侵攻しようとしたが、徳川方の水野勝成隊が近づいていることを察知し、河内国に引き上げた。
そして28日には2万の軍勢が大坂城を発向した。兵は途中で二手に別れ、一隊は小出吉英の岸和田城を襲撃、もう一隊は堺の町を焼き払った。
かつて独立自治都市であった堺は、大坂城を築いた羽柴秀吉が商人たちを大坂の城下町へ強制的に移住させたため、慶長期には衰退していた。関ヶ原の役後に徳川の直轄領となり、堺に残っていた豪商・今井宗薫は徳川に接近していた。このため、堺は徳川の兵站基地と目されていたのである。
この堺焼き討ちの翌日、遭遇戦が起こっている。3千の兵を率いた大野治房が、和泉国南部の樫井で、5千の兵を率いて行軍中の浅野長晟隊に攻撃を仕掛けた。しかし浅野隊の反撃が激しく、大野隊は敗走した。この戦いで治房に属していた塙直之が討死している。

徳川方が攻勢に出たのは5月5日であった。この日、家康は二条城を出陣。当初は3日に出陣と決められていたのだが、3日が雨だったため5日に延期されたという。このとき家康は、陣場の賄いの者に3日分の兵糧だけを用意するように命じた。冬の陣のときとは違い、大坂城の防御機能が無に等しい今回は野外での短期決戦となることを見越しての指示だった(ただし、用意された食糧が本当に3日分だけだったかは不明)。
京を出た徳川勢は、軍勢を河内方面軍と大和方面軍の二手に分けた。河内方面軍は先鋒が藤堂高虎井伊直孝、2番手に榊原康勝・酒井家次、3番手に本多忠朝・松平康長、4番手に松平忠直・前田利常という編成である。家康・秀忠の率いる本隊もこちらに属している。
大和方面軍は先鋒が水野勝成、2番手に本多忠政、3番手に松平忠明、4番手に伊達政宗、5番手に松平忠輝。この両軍は大坂南郊で合流し、大坂方を南の広野に誘い出したうえで、一気に大坂城に向けて攻め立てるという目論見である。同日の夕方、家康と秀忠は大坂城を3里先に臨む河内国の星田と砂に着陣した。

その日の夜、大坂城では真田幸村毛利勝永後藤基次の3人は軍議を開き、明朝に徳川方の大和方面軍を国分付近で迎撃するという方策を固めた。徳川方が合流して大軍団となる前に戦力を削ごうということである。しかし、大和方面軍はその夜のうちに、すでに国分一帯に布陣していたのである。
そして翌6日早暁、大坂方の後藤隊は道明寺まで進出。しかしそこに友軍の姿はなく、徳川方の水野隊・伊達隊がすぐそばにまで接近していた。孤軍となった後藤隊は、2万3千を数える水野・伊達隊に2千8百の兵で戦いを挑んだのである(道明寺の合戦)。
後藤隊は小松山を占領して山上に陣取り、攻めあがってくる水野隊と果敢に戦ったが、伊達隊・松平忠明隊からも包囲攻撃を受ける破目になった。大激戦の末に、今はこれまでと基次は先頭をきって山を駆け下り、銃弾を胸に受けて戦死した。

道明寺から北へ2里ほどの八尾・若江においても朝から激戦があった。
この一帯は長瀬川と玉櫛川に挟まれた低湿地帯で、ここで河内方面軍を迎え撃つべく長宗我部盛親隊、木村重成隊が待ち構えていたのである。
八尾では長宗我部隊5千と藤堂隊5千が、若江では木村隊4千8百と井伊隊3千2百が激突した(八尾・若江の合戦)。
八尾では不意を衝かれた藤堂隊が次々と有力武将を失って崩れかけるが次第に持ち直し、3百の戦死者を出したが、6百弱の首級を挙げた。若江では、数に勝るはずの木村隊が壊滅的な打撃を受け、重成も戦死するという敗戦を喫した。井伊隊の犠牲者百人に対し、木村隊は3百の兵を失ったという。

濃霧による視界不良で参着が遅れた真田・毛利隊合わせて6千の兵が道明寺に到着したのは昼頃のことで、再び道明寺で合戦が始まった。既に後藤隊と戦って疲労の色が見える伊達隊らに対し、真田・毛利隊は新手である。今度は大坂方が優位に戦いを進めたが、午後2時過ぎになって八尾・若江戦線での敗報が届いたため、撤退した。
大坂城外での戦いはこれらの戦いだけであった。

翌7日からはとうとう大坂城の総攻撃が始められた。家康・秀忠は平野で軍議を練ったあと、家康が天王寺口からの攻撃を、秀忠が岡山口からの攻撃を受け持つことになった。このとき秀忠は、表舞台となる天王寺口での指揮を望んだが、家康はこれを許さず、自分が采配を揮うことに固執したという。自分の手で豊臣家を葬りたかったのであろう、家康は74歳であったが、念願の豊臣家滅亡の瞬間が近づいていることに、このときばかりは若やいでいたといわれている。
天王寺口の先鋒は藤堂高虎隊と井伊直孝隊の予定であったが、前日の野戦での損耗が激しかったために本多忠朝隊に変更された。岡山口の先鋒は前田利常である。
それに対する大坂方の守りであるが、天王寺口は真田幸村・毛利勝永・大野治長ら、岡山口は大野治房らが大将となって守っていた。そして遊軍として明石全登が船場に布陣。特に最前線と思しき天王寺茶臼山には真田幸村が布陣した。ここは冬の陣において家康が本陣を置いた場所であるが、真田隊は前日の夜からここに陣を構えたという。戦術的に要衝の地だったのである。
徳川勢が大坂城に攻撃をかけたのは正午頃である。天王寺口の本多・毛利両部隊の間で口火が切られ、この天王寺口の戦いの銃声が合図となって、岡山口でも戦いの火ぶたが切って落とされたのである。
家康は、今度の出陣前に「大坂城を3日で落としてみせる」と豪語していたという。5日の出陣なので、7日がその3日目にあたる。徳川方諸将は、何としてもこの日のうちに攻め落としたいと奮戦し、特にその中でも松平忠直隊1万5千が茶臼山へ向けて死に物狂いの突撃を敢行、最終的に挙げた首級は3千7百余という。
3千の赤備え武者を率い、家康本陣へ向けて決死の突撃を図った真田隊もこの松平忠直隊に阻まれ、幸村は討死を遂げた。
この日、出陣するにあたって幸村は秀頼自身の出馬を望んだという。総大将の秀頼が姿を見せれば自軍の士気も格段に上がるであろうことを見越してのことだったが、秀頼が戦場に姿を見せることはなかった。淀殿に引き止められてしまったのだ。
一方の岡山口では、いま一人の総大将・徳川秀忠の指揮する軍勢と、大野治房の率いる大坂方諸隊とで激しい攻防戦が展開された。押され気味の戦況に勇み立つ秀忠が自ら采配を執って進み出ようとするのを左右の者が押し留めようとしたが、それでもなお秀忠は進もうとしたといい、これによって徳川方の諸隊も勇戦に励んだのである。

開戦当初は拮抗していた戦況も、時間を経るにつれて形勢が明らかになっていった。圧倒的な兵力でもって臨んだ徳川方が、その強みを発揮したのである。これらの合戦がいかに激しい戦いだったかは、この日だけで両軍合わせての死者が2万人と伝えられていることからも窺える。
そして午後3時頃には大坂方諸隊が壊滅していた。
徳川方は城へ向かう敗残兵を追って三の丸に迫り、家康は茶臼山、秀忠は岡山へと本陣を進める。そして、これに合わせるかのように大坂城内から火の手が上がった。大坂城内で台所頭を務めていた大角与左衛門という侍が徳川方に通じており、御殿の大台所に火をつけたのである。
火は延焼し、とうとう千畳敷にもいられなくなった秀頼らは天守閣に入って自害しようとしたが、近臣らに諫められて山里曲輪の隅櫓に逃げ込んだ。糒庫(ほしいくら)と呼ばれているところである。
この頃、大坂方の最後の望みとして秀頼の妻・千姫が岡山の秀忠本陣に送り届けられた。千姫は秀忠の娘、家康には孫娘であり、大野治長はこの千姫をして自らの切腹と引き換えに淀殿・秀頼母子の助命を嘆願したのである。
しかし、これは黙殺された。家康はこの処置を将軍である秀忠に一任したが、秀忠は助命を認めなかったのである。
午後4時頃には本丸も炎上し、この日の戦闘は終了した。大坂城は落城したのである。

そして翌5月8日の朝、名城の名をほしいままにした大坂城は、前日からの猛火によって無残な姿となっていた。
糒庫で長い夜を過ごした淀殿・秀頼母子や近臣らは千姫に託した助命嘆願を希望に生き長らえていたが、正午頃に片桐且元の案内を受けた井伊直孝・安藤重信隊が、糒庫を目がけて一斉射撃を行ったところ、間もなく糒庫から火の手があがった。この銃声によって一縷の望みを断たれたことを悟った母子は自害し、大野治長・毛利勝永・真田大助ら近臣らも火薬に火をかけて殉じたのであった。

秀頼には、千姫との間には子がなかったが、側室との間に8歳の男子と7歳の女子がいた。この2人は落城に際して脱出を果たして京都に逃れていたが、やがて見つけ出された。
男子は国松といい、5月23日に京都六条河原で斬首された。女子は千姫の妹分として鎌倉の尼寺・東慶寺に入れられて天秀尼と称したが、生涯を独身で通したため、秀吉の血筋は残されなかった。
栄華を誇った豊臣氏はわずか2代で滅亡したのである。