浅野長晟(あさの・ながあきら) 1586〜1632

浅野長政の二男。浅野幸長の弟。通称は岩松。従五位下・但馬守。
文禄3年(1594)より羽柴秀吉に3千石で仕え、豊臣秀頼の近侍となる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役後より徳川家康に従い、慶長15年(1610)に備中国足守(蘆森)で2万4千石を給される。
慶長18年(1613)8月、兄・幸長の没後に家督を継ぎ、紀伊国和歌山37万余石を領した。
慶長19年(1614)の大坂冬の陣には東軍として参陣し、摂津国穢多崎での合戦で活躍した。続く翌年の大坂夏の陣においても東軍勢力として、和泉国樫井で大野治房・塙直之と戦い、これを破った。またこの間、豊臣勢と通じて蜂起した領内の熊野・吉野などの一揆をも鎮定して治国の基礎を築いている。
元和2年(1616)1月、家康の三女・振姫を妻に迎えた。
元和5年(1619)、福島正則の改易を受けて安芸国と備後半国42万6千余石を領し、安芸国広島城主となる。
寛永9年(1632)9月、広島で死去した。47歳。法名は洞雲宗仙自得院。
紀伊の領主だった頃、関ヶ原の役後に九度山へ配流された真田昌幸幸村へ合力米として毎年50石を送り、川渕上下5丁の間を遊山所として与えたという。