豊臣家臣。尾張国海東郡二寺村に生まれる。幼名は市松。左衛門大夫。羽柴清洲侍従。
通説では福島正信の子とされるが養子説もあり、出自を星野氏、果ては大工の倅とする説もある。
幼時より羽柴秀吉に仕えて2百石の所領を与えられていたが、天正6年(1578)の播磨国三木城攻めを初陣に天正9年(1581)の因幡国鳥取城攻め、天正10年(1582)6月の山崎の合戦に従軍して武功を挙げ、9月に播磨国神東郡内に3百石の加増を受けた。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では柴田勝家方の豪将・拝郷久盈を討ち取る活躍を見せて『賤ヶ岳の七本槍』の筆頭に挙げられ、他の七本槍の面々を上回る5千石の恩賞を受けた。知行地は近江国栗田郡、河内国八上郡。
羽柴秀吉の子飼いの武将として、加藤清正と共に双璧をなし、猛将として名高い。
天正13年(1585)7月、従五位下・左衛門大夫に任ぜられる。小牧・長久手の合戦、紀伊征伐の和泉国畠中城攻めなどに功があった。
九州征伐では肥後国の代官や検地奉行を務めた。天正15年(1587)9月に伊予国の宇摩・新居・周敷・桑村・越知郡で11万3千石の所領のほか、秀吉直轄領の代官として9万石の統治を任された。居城ははじめ湯築城、のちに国分(国府)城。
天正18年(1590)の小田原征伐では伊豆国韮山城に北条氏規を攻めた。
文禄の役には忠清道や釜山浦などで主に兵糧輸送や兵站確保の任にあたり、文禄4年(1595)前半まで在陣した。この間、武断派の旗頭として、方針の異なる文治派の石田三成と対立するようになり、確執を深めた。帰国後は伏見城の普請を分担した。
文禄4年(1595)7月には24万石を受け、尾張国清洲城主となる。また、関白・豊臣秀次が高野山で切腹を命じられた際にはその検視役を命じられた。
慶長2年(1597)7月に羽柴の姓を授けられ、同時に侍従に叙任。
慶長4年(1599)1月、徳川家康と私婚を約したことにより石田三成の糾弾を受け、激しい憎悪を抱くようになる。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では、その導火線となった会津上杉討伐から徳川家康の手に属し、その道中で三成挙兵の報が届いた際の軍議においては「三成憎し」の一念から家康に与した。関ヶ原に至るまでは東軍の先鋒部隊主力として美濃国の竹ヶ鼻城・岐阜城を攻略するなどの働きを見せ、9月15日の関ヶ原での決戦でも6千の兵を率いて先鋒部隊を務め、宇喜多秀家隊を破るなどの大功があった。
戦後にはその功により備後・安芸国49万8千2百石に加封されて安芸国広島城主となった。
だが豊臣家が衰退していくさまと徳川家康の独裁的態度に歯噛みしつつも慶長19年(1614)よりの大坂冬・夏の陣においては江戸城の留守居役の命じられた。これは、豊臣家を思うこと厚い正則を危険視したための処置ともいわれている。
元和3年(1617)6月、従四位下・参議に叙される。
しかし元和5年(1619)6月、元和3年春の大洪水で破損した広島城を幕府から正式な許可を得ないままに修築したため、武家諸法度に触れるという理由で除封。翌月、越後国魚沼郡2万5千石と信濃国川中島で2万石の計4万5千石に転封、信濃国高井郡高井野にて蟄居した。
元和6年(1620)、後継の福島忠勝が没したため、越後国の所領を幕府に返上した。
寛永元年(1624)7月13日に病没した。64歳。墓所は京都妙心寺海福院と長野県厳命寺にある。法名は海福寺殿前三品相公月翁正印大居士。
しかも福島家は、正則の没後、幕府の検視を受けないまま正則の遺体を火葬にしたという理由で領地没収・改易された。
正則は戦場ではその剛勇を恐れられる猛将として名を馳せたが、稀に見る人情の深さを持ち合わせており、恩を受けた秀吉の母・大政所が病の床についたときには不眠の看病にあたったともいい、秀次の切腹に立ち会ったときにはその哀れな運命に涙を流したという。また、尾張国に転封された際に、少年時代に可愛がってくれた甚目寺という寺の老尼を探し出し、かつての恩に報いるために米や味噌を送り続けた。しかも関ヶ原の役ののちに広島に移ることになったとき、替わって清洲の領主となる松平忠吉の家老にその旨を話し、自分に代わって従来どおりに老尼の面倒を見てほしいと、くれぐれも頼んでいったという逸話を残す。