小田原(おだわら)征伐

相模国小田原城を本拠として関東8ヶ国におよそ300万石ともいわれる国力を誇った北条氏は、織田信長の存命中は信長に誼を通じ、天正10年(1582)の甲斐国の武田攻めのときなどは同盟軍として関東から兵を出しているほどであった。ところが信長が本能寺の変にて討たれると態度が豹変し、織田氏の有力武将であった滝川一益神流川に戦ってこれを破り、実質的に信長の後継者となった羽柴秀吉とは没交渉の状態であったばかりか、徳川家康と結んで反秀吉的行動に出ていたのである。しかし、そうした北条氏の立場は天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦後の、家康の秀吉に対する講和・臣従によってますます苦しくなっていったのである。とはいえ、天正15年(1587)までは秀吉の主な攻撃目標が四国・九州に向けられていたために、北条氏は独自の権力基盤を守り抜くことができていたのである。
九州征伐で薩摩国の島津氏が降伏したことにより、秀吉の次の標的は関東に向けられた。秀吉は、九州征伐から凱旋後の天正15年(1587)12月3日に「関東・奥両国惣無事令」を発令することによって、関東から出羽国・陸奥国に至るまで、大名や領主同士による私闘を禁じたのである。しかも、その「関東・奥両国惣無事令」を補完したのが翌天正16年(1588)4月に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸であった。これを好機と捉えた秀吉は諸大名から誓紙を取ることで関白・秀吉への絶対的服従を求め、これによって秀吉へ臣従の礼を取らない大名は、秀吉の「私的」な敵ではなく、「公的」な敵として位置づけられることになったのである。
早速、秀吉は北条氏当主・北条氏直の岳父にあたる家康を介して北条氏政・氏直父子の上洛を命じた。家康にしてみれば複雑な心境であったろうが、すでに秀吉に抗するのは不可能と判断し、「上洛を承知しないのであれば、氏直に嫁がせている娘の督姫を離縁していただきたい」と申し送っている。つまり、上洛に同意しなければ同盟関係を破棄しようというのである。さすがに北条氏もこれには負けて、氏政の弟・北条氏規を上洛させた。しかし、真田氏との上野国沼田をめぐる領地問題(沼田領問題)が解決しない以上は氏政・氏直自身は上洛しないという固い態度であった。その一方では秀吉との戦いがあることを想定して、居城・小田原城やその他の支城を修理・拡張するとともに武器の製造から兵糧の確保に至るまで、万全の用意に取りかかりはじめたのである。
当時、小田原ではこれを「京勢陣用意」と表現していたという。従来の軍役基準とは別に、郷村の男子15歳から70歳までの農民を徴発する百姓大量動員態勢も具体化しはじめた。とくに氏政は、かつて上杉謙信武田信玄から攻められた際、小田原城に籠城して撃退した戦果を強く意識していたようで、小田原城に籠城すれば負けることはない、それに加えて近隣の佐竹氏や里見氏・結城氏や奥州の伊達氏らと同盟すれば一大守備陣営ができあがる、と考えていたふしがあったようである。
こうして氏政・氏直父子は和戦両様の構えで臨んでいたが、天正17年(1589)11月頃、北条氏邦の家臣で、当時上野国沼田城代を務めていた猪俣邦憲が突如として真田昌幸の支城・名胡桃城を奪うということがあった。秀吉はこの軍事行動をもって北条氏が臣従の礼を取る意思がないと見て、ついに11月24日付で5ヶ条からなる長文の宣戦布告状を北条氏につきつけ、同文の文書を諸大名にもばらまいたのである。
これを受けて北条氏が領内に出陣の命令を発したのが12月8日である。
「官軍」勢も12月10日に主だった諸将を集めて、兵役の割り当てや兵站線・兵糧の輸送などの綿密な計画を立てた。
こうして、とうとう秀吉と北条氏の全面対決となったのである。

翌天正18年(1590)3月1日、秀吉は自ら3万2千の直属の軍勢を率いて京都を出発した。先鋒として徳川家康の軍勢3万が2月7日に先発しており、これに続いて進発した上杉景勝前田利家らの北陸方面軍3万5千や瀬戸内や紀伊・伊勢の水軍1万余、東海道諸城の守備として毛利軍など1万余、そして秀吉率いる本隊14万人を合わせると、総勢22万人を超える大軍となった。加えて米20万石を確保し、さらに黄金1万枚で米50万石を買うという、兵站面においても万全な態勢で臨んだ。
それに対する北条側は、さきの百姓の大量動員を入れてもおよそ3万5千、それに友軍を合わせても5万6千ほどの兵力でしかなかったという。
軍勢的には全く相手にならないほどの違いである。このとき小田原城では、出撃して箱根で上方勢を迎撃すべきであるという北条氏邦らと、小田原に籠城して戦うべきだと主張する松田憲秀らとの意見に別れ、侃々諤々の討議の末、籠城することに決まった。なかなか結論が得られなかったため、後世に、論議ばかりでいっこうに結論が出ないことを指す「小田原評定」の語源となった。
3月27日に秀吉が沼津に到着、29日より山中城に攻めかかり、わずか数時間の戦闘でこれを落とした(山中城の戦い)。山中城攻めと並行して行われた韮山城攻めは城兵がよく戦ったので持久戦となったが、北条氏にとってはこの山中城陥落は誤算だった。足柄城−山中城−韮山城を結ぶ防衛線で秀吉の大軍を防ごうと考えていた目論見が、いとも簡単に崩されてしまったのである。
秀吉軍は山中城を落とした勢いで東海道を下り、4月2日には箱根湯元に到着、いよいよ小田原城の包囲にかかるのである。
その小田原城であるが、この日のあることを想定していた北条氏の手によって、城と町がすっぽりと入ってしまう大外郭が完成していた。惣(総)構えとか惣郭とも呼ばれる大外郭は土塁のほか堀も備えたもので、きわめて広大なものであった。この大外郭の効果は絶大で、秀吉軍は包囲したものの、容易に城を落とすことができなかったのである。
そこで秀吉は得意の長期戦、すなわち兵糧攻めをすることにした。対の城として石垣山城の築城にかかり、自らは愛妾の淀殿を呼び寄せ、諸大名にも妻を呼ばせるなどして、小田原城中の兵糧の減少、戦意の喪失を待ったのである。さらにその一方で秀吉は、各地に散らばる北条氏方の50にも及ぶ支城を各個撃破にかかった。
4月20日に松井田城が落ち、続いて厩橋城、箕輪城が陥落。4月27日には江戸城も開城。5月初旬には河越城、松山城が降伏。5月22日に岩付城、6月14日には鉢形城、その他戦わずに開城してしまった城も多く、6月23日に八王子城、24日の韮山城の落城によって、残るのは小田原城と忍城の2つだけになってしまうという状態だった。
また、その間に北条氏重臣の松田憲秀の内応があり、さらには密かに同盟を望んでいた津軽為信相馬義胤結城晴朝佐竹義宣最上義光伊達政宗などの関東から奥羽にかけての大名たちが秀吉に帰順したことにより、外部からの援助が期待できなくなったなどの情報がもたらされ、城中の空気は次第に徹底抗戦から降伏へと変わっていったのである。
機は熟したと見た秀吉は黒田孝高らを使者として送り、降伏を勧告させた。その一方では関東各地に展開させていた将兵を集結させて7月2日に総攻撃を命じるなど、硬軟とりまぜた戦術で北条氏を揺さぶったのである。
結局は氏直が7月5日、小田原城を出て家康の陣所を訪ね、自ら切腹するかわりに城兵の命を助けるよう求めることとなった。家康はそのまま氏直を秀吉家臣・滝川雄利のもとに行かせ、秀吉に氏直投降の由を連絡した。が、氏直の切腹の申し出にも関わらず、秀吉はそれをさせなかった。そのかわりに父の氏政と、その弟で八王子城主の北条氏照の2人に切腹を命じている。これは、氏直が家康の婿だったことを考慮したことも一つの理由であるが、秀吉が氏政と氏照の2人を主戦派と見なしたからであろう。また、大道寺政繁と、内応した松田憲秀も切腹を命じられた。
氏政・氏照は7月9日に城を出て、城下にあった田村安栖の屋敷に移され、そこで11日に切腹して果てた。これにより、初代の北条早雲以来およそ百年にわたって関東に覇を唱えた戦国大名・北条氏は滅亡したのである。

氏直は7月20日、一族の氏規・氏房ら3百余人とともに高野山に向かった。開城後の7月13日に小田原城に入った秀吉は、家康に北条氏の遺領を与え、さらに奥州平定のため、17日に小田原城を出発している。すでに小田原征伐の最中に伊達政宗が秀吉のもとに頭を下げてきたので、残る葛西氏や大崎氏などを滅ぼすためであった。
8月1日には佐竹氏の本領を安堵し、6日に白河、9日に黒川城(会津若松城)に入り、そこで小田原征伐に来なかった諸大名の処分を発表した。それによって大崎義隆葛西晴信・石川昭光・白川義親らの所領が没収され、かわって蒲生氏郷・木村吉清らがそれらの跡に入ったのである。
これにより、奥州の仕置きが成り、秀吉の天下統一が完成した。その意味で、秀吉にとっても、また日本の歴史全体にとっても小田原征伐の持つ意味は大きいものであった。