大道寺政繁(だいどうじ・まさしげ) 1533〜1590

北条氏譜代の重臣。大道寺資親の子。大道寺盛昌の孫。通称は孫九郎。妻は江戸城代・遠山綱景の娘。駿河守。
北条氏政氏直の2代に亘って歴任して武蔵国河越城代、のちに上野国松井田城主。
先祖は後北条氏の祖・北条早雲(伊勢宗瑞)が旗揚げしたときより随従していた6人の郎党のひとり・大道寺太郎(法名を発専)といい、政繁は元亀元年(1570)3月に没した父・資親のあとをついで河越城代の職掌を継承し、天正2年(1574)からは鎌倉代官をも兼ねた。
天正10年(1582)6月の本能寺の変ののちには氏直に従って上野国に出陣し、上野国箕輪城に拠って関東地方を統括していた滝川一益を逐い(神流川の合戦)、同年8月には甲斐国をめぐって徳川家康と対峙するが(若神子の合戦)、10月末に北条氏と徳川氏が和議を結んだのちには松井田城主として北方の防備を固める役割を担った。
天正18年(1590)の小田原征伐に際しても松井田城を守るが、前田利家ら率いる北陸方面軍3万5千に包囲され、4月20日に開城降伏。その後は北陸方面軍の先鋒として武蔵国松山城や忍城攻めに加わったが、戦後にこれを「不忠」とされて羽柴秀吉から切腹を命じられ、7月19日に江戸で自刃した。享年58。法名は松雲院殿江月常清大居士。