神流川(かんながわ)の合戦

織田信長は天正10年(1582)3月の武田征伐(田野の合戦)において武田勝頼を滅ぼしたあと、重臣・滝川一益を関東管領に任じて上野国厩橋城に置き、関東支配の拠点とした。しかし関東には相模・武蔵・伊豆国を領し、上総・下総・下野・常陸国の一部をも勢力圏とする北条氏政氏直父子が健在であり、実際に一益が掌握できたのは旧武田領のうち上野国と信濃国であった。
ところが6月の本能寺の変で信長が討たれたことによって、事態は各地で急展開を迎えることになる。
信長横死の報を得た一益は、仇を報じるために軍勢を率いて西上することを企図したが、気がかりなのは北条勢の動向である。北条氏は信長と誼を通じており、先の武田征伐においても織田勢に同調していたが、関東制覇の野望を未だ持ち続けていることは明らかであった。
西上するにあたっては信長の死を秘匿すべき、と注進する者もあったが、一益は「信長公の横死はいずれ知れよう。嘘をついたとわかれば後々に治政の妨げになる」として事実を北条氏に伝えたという。

一益は上野国の諸将を中心とする1万8千の軍勢を率いて発向したが、上野・武蔵国の国境付近で北条方の軍勢と遭遇する。北条父子は信長の死による混迷に乗じて勢力拡大を図り、上野国強襲に踏み切ったのであった。
6月16日には北条軍が倉賀野に布陣した滝川軍を攻めたことで戦端が開かれ、18日には神流川畔の金窪(金久保)で合戦となり、滝川軍が北条氏邦の手勢3百ほどを討って勝利した。
戦いは翌19日にも展開された。北条軍には氏直率いる本隊も到着し、総勢5万余という大軍に膨れ上がっており、11段に備えて布陣。対する一益は軍勢を2段に分け、手勢の3千を前方に出し、上野衆で後陣を固めた。兵数に劣る不利な状況の中、北条軍に寝返る者が出ることを憂慮してのことであったという。
戦闘が始まるとはじめのうちは北条軍が圧され気味で滝川軍が優勢のように見えたが、これは北条軍の戦術であり、勢いに乗って突進しようとする滝川軍の左右から伏兵で攻めかかった。この包囲攻撃に滝川軍は揺さぶられ、次々に繰り出される北条勢の新手によって崩されて敗走したのである。
この合戦によって滝川軍に3千人以上の犠牲者が出たと伝わり、一益は上野国箕輪城に退却したがここも支えることができず、信濃国から中山道を経て本領の伊勢国長島へと逃げ帰った。