織田家臣。近江国甲賀郡滝城主。池田恒興の従兄弟という。通称は彦左衛門。伊予守・左近将監。
河内国で叔父・高安氏を殺した罪で城主を追われ、放浪ののち、織田家の重臣・柴田勝家の世話で織田信長に仕えたという。
智謀と軍事能力は傑出しており、柴田勝家や明智光秀らと並び称された名将ぶりを発揮した。鉄砲の名手であるとも伝わり、合戦のたびに先鋒を務め、数々の武功を立てた。しだいに織田家中での地位も重くなり、信長に重用された。
天正2年(1574)、伊勢長島一向一揆:その3には海上より安宅船を指揮して打撃を与えた。一向宗の鎮定後には伊勢国に5郡を与えられ、伊勢国長島城主と尾張国蟹江城主を兼任する。伊勢国を統治するにあたっては、討滅したかつての国主・北畠具教の子の具房を領内に預かり、北畠一族とその遺臣を多く召抱えて庇護するという柔和な調和策で臨んだ。
天正10年(1582)の武田征伐では先鋒を務め、戦後には信濃国の佐久・小県の2郡および上野一国の領土を与えられ、地位は(織田政権の)関東管領として上野国厩橋城主と、権勢を高めた。
しかし6月、本能寺の変で信長が斃れると、当時関東に駐留していた一益は北条氏と戦い(神流川の合戦)これに敗れ、辛うじて本拠である伊勢国へと逃げ帰った。
その後の信長の後継争いにおいては信長三男の織田信孝を勝家と共に援け、同年冬に羽柴秀吉が信孝の拠る美濃国岐阜城を攻めたことに対して伊勢国の亀山・峯城を攻めるなど、雪のために越前国から出陣できない勝家を側面から支援している。
天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では勝家方として秀吉と戦ったが、それに先立って6万の大軍を擁する秀吉勢に居城である長島城を攻撃され、敗れて降伏し、近江の南部で5千石を給せられる。
その後は威勢が全く奮わず、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦では秀吉の麾下として従軍し、九鬼嘉隆と共に内応策を用いて尾張国蟹江城を攻略するも、徳川家康・織田信雄連合軍の反撃を受けて敗れ、伊勢国の楠へと退却した。
これらの行動が秀吉の怒りを買ったため、出家して京都妙心寺に入って入庵と号した。さらに越前国大野に蟄居、捨扶持3千石を与えられたが、不遇のうちに越前で天正14年(1586)9月9日に病死した。62歳。法名は道栄。