九鬼嘉隆(くき・よしたか) 1542〜1600

織田家臣。九鬼定隆の二男。甥である澄隆のあとを受け家督を継いだ。右馬允・大隈守・従五位下。
はじめ伊勢国司の北畠氏に属して波切城におり、「志摩海賊七人衆」のひとりに数えられたが、仲間内の掟に背いて逐われ、永禄11年(1568)に城洛中の織田信長に謁し、その麾下に参じた。
織田家中にあっては水軍の将として名を馳せた。
永禄12年(1569)の伊勢大河内攻めのときに軍船を率いて参戦、磯部7郷・賀茂5郷を奪って志摩に復帰した。
天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆:その3の際には北畠具豊(織田信雄)に属し、安宅船十数艘を率いて参陣した。
石山合戦最中の天正6年(1578)の木津川沖の海戦:その2においては、大砲を備えた巨大戦艦『日本丸』6艘を建造、6月に雑賀浦で雑賀水軍5百艘を、11月には摂津国木津川沖に浮かべて海上を封鎖、6百艘からなる毛利水軍を撃破した。これにより本願寺は毛利氏より海路を使った物資の供給を受けることができなくなり、織田勢の優位が決定的なものとなった。
この戦功により信長から志摩7島と摂津国野田・福島の地を加増され、3万5千石を領し、鳥羽城を築いた。
信長の死後は織田信雄に従っていたが、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦ののちは羽柴秀吉に属し、伊勢国内において信雄と戦っている。
天正15年(1587)の九州征伐、天正18年(1590)の小田原征伐文禄の役にも水軍として活躍した。
しかし慶長の役においては李舜臣率いる朝鮮水軍に破れ、その責任を取らされる形で慶長2年(1597)に隠退し、伊勢国内に隠居料5千石を得て家督を子の守隆に譲った。
慶長5年(1600)の関ヶ原の役では新宮城主・堀内氏善らと結んで西軍に通じ、徳川家康率いる東軍に属する子・守隆の鳥羽城を奪った。これにより父子間で戦闘が繰り返されたが、西軍の敗北が決定的となると鳥羽城を捨てて志摩国答志島和具浦に潜伏。戦後、守隆が己の戦功に替えて必死の助命嘆願を行い、ついに家康に許されたが、その報が届く前の10月2日に自刃して果てていた。59歳。法号は隆興寺泰叟常安。